前おき
2020年に色々あって小西遼生さんにハマった。
konishiryosei.com
好き。
過去作を追う内にこんなものを見つけた。
keitahaginiwa.com
バナナ????何か全然わからないけどやばそうなことは分かった。
テレビでちらっと歌っていた松下洸平さんの声がとてもきれいで、声の相性の良さというのは大層気になる。買った。
で、
4月7日18時公演 松岡広大×山崎大樹ペア(以下松山ペア)
4月9日13時公演 田代万里生×新納慎也ペア(にろまり)
4月9日18時公演 成河×福士誠治ペア(成福)
行った。
『スリル・ミー』というお話
色々通り越して10周くらいしてすげーよくできた戯曲だなと思った。
物語の軸としてはざっくり二つあるんじゃなかろうか。一つ目は二人の内面。二つ目は社会。広義での文脈と言った方が良いかな。このふたつがものすごい絡み方をしているなと。
まず、この作品の元になった「レオポルドとローブ事件」。裕福なユダヤ人家庭に育った青年二人が14歳の子供を「スリルのため」「自分が『超人』だと証明するため」に殺してしまった、という卑劣極まりない事件で、wikiの参考文献をお散歩する限りアメリカではとても有名な事件らしい。恥ずかしながら知らなかった。二人は死刑は免れないだろう、と思われていたけれど、死刑反対論者のクラレンス・ダロウの熱い弁護によって99年の懲役刑と終身刑に処され、ローブは刑務所で他の囚人に刺され死亡、レオポルドはのちに釈放、病死。当時の新聞やダロウの回想録*1を読むと当時の人々の「正しい」怒りが伝わってきて面白い。面白がっている場合ではないな。興味深い。ローブの幼少期のエピソードや*2、精神鑑定で二人の人格の歪みを説明しようとしていたり。これ、いまの日本で凶悪犯罪が起きた時の反応とそんなに変わっていないんじゃないか? 弁護士のダロウも二人の弁護に精神鑑定を大いに用いていて、二人は「異常な」状態にあったからそんな凶行に走っても仕方なかったんだ、むしろ哀れむべきだとでもいうよう。
でも、そうやって切り捨ててしまっていいんだろうか。
二人はとても裕福な家庭に育ち、頭もとても良かったそう。ありていに言えば上の人間。他の人の上に立っていることが普通な人間たちだった。二人はそれを当たり前だと思っていて、他のもの、弱いものを踏みつけることに躊躇がない。それは子供を殺すということに繋がっていくし、「彼」を手に入れるため行動した「私」の行動の根底にあるのも同じ暴力性なんじゃないかと思う。
そういう彼らを異常なものとして哀れみ、怒り、外側においてしまうこと。それもまた二人が持っていたのと同じ種類の暴力性だと思えてならない。そもそも二人が当たり前に持っていた裕福・貧困、天才・凡人、弱者・強者の格差観はもともと社会のものだから。
そんな彼らが信奉していたニーチェ思想がどんなものか、高校の頃を思い出す……ああ、倫理のテストで◯点を取った時……くらいのレベルだったのでなんか参考になりそうなやつ探して
入門という単語で見つけて読んだけどマジで分かった気がしない。有識者の見解求む。二人とも本当に頭が良かったんだなあ(いいのかそれで)。これ多分すごい分かりやすく説明しようとものすごい頑張ってくださっているのは伝わってくるんだけど、ごめん凡人無理だった。
愚痴が長くなったのでスリミに直接関わりがあってかつ分かった範囲でまとめると、資本主義の矛盾を解決するためにマルクス主義とニーチェ思想が生まれたよ、でもニーチェは言葉が過激すぎて優生思想や特権主義と結びつけられちゃったよ、ニーチェが言いたかったのは低い平均値に甘んじるより人類の上昇を志向することができる個人(=超人)の創造を目指すことだよ、という感じ。別に凡人はカスだとかそういうことじゃない。認識論の話は面倒なのでまた今度。(日本人のいう今度は永遠に来ない)
ただ、彼らが生きていた1900年代前半ではまだそういう読みはされていなくて、危険思想っぽかった。二人は飛び級するほどの天才だったそうだから、ニーチェの崇高な理想の香りに酔いしれたのかもしれないし、ただ特権を与えてくれる読み方に流されていた普通の脆い人間なのかもしれない。いまとなってはどっちかはもうわからない。(蛇足:あとニーチェは反ユダヤ主義者ではないんだけど、ユダヤ教起源批判、痛烈なキリスト教批判があるのでユダヤ人である彼らがどう読んだのか気になるところではある。が、二人とも熱心なユダヤ教信者ではなかったっぽい。それに米社会のユダヤ人差別がどう影響していたのかは気になるなあ。自分が持つ被差別アイデンティティであるユダヤ教から発展したキリスト教を批判しているから、ニーチェが魅力的に映ったのかな、と思ったり。民衆も二人がユダヤ人だったから過激な反応になったのでは? なんて。二人の行動は許されることじゃないけど。)
この社会と二人の接するところに色々な「力」が働いていて、そこで『スリル・ミー』は犯罪の動機を二人の関係性ゆえだった、として二人の内面に強烈な力関係を与えている。それは主ー従であったり、愛憎、依存、惚れている/いないであったり、「言葉にするのは難しい」のだが、二人の駆け引きで力関係が終始拮抗し、逆転し、物語が動いていく。二人が内面化した力と二人の間にある力、二人の周りにある力がリンクしている。
これも蛇足。スリミを元気に観に行ったということはご多分に漏れずしっかり腐の身分でありまして、マンガやらアニメやらなにやら摂取する中でふと疑問に思ったのが男同士のクソデカはいっぱいあるけど女同士のクソデカってあんまりないな、と。あっても理由が必要だったり何かに阻まれたりしてない? なんで? という答えの一つがスリミなのかなあ。女同士だとこういう強烈な力がなんでかわからないけど最初から付与されていない、ような気がする。
最後にマジでやばいなと思ったのが、入れ子構造。入れ子構造の戯曲自体は時間の行き来をまとめるのによく使われるし別に珍しくもなんともないんだが*3『スリル・ミー』に関しては「私」が語り手であることで時間の整理や、「彼」自身と「私」が思う「彼」の二重のイメージができることだけじゃなく、ここまで3000字近く使って書いたことが全部ぶっ壊れる可能性が生まれていることがやばいと思う。サイコか? 狐につままれたとはこのことよ。おれたちは「私」、いやステファン・ドルギノフという「超人」の手のひらの上で転がっていただけなのか……!
どこでどうやるか
まあそんなことを言いつつも、これだけ大きな背景を抱えている作品が上演される時代・場所は中身(の受け取られ方)に大きく作用する、当然ながら。オフ・ブロードウェイでは実際の犯人の名前で上演されたそうだけど*4、日本版は普遍的な物語にするために固有名詞を徹底的に省いたと演出家の栗山民也談*5。なるほど確かにそうだろう。先に書いたような格差・暴力は日本でもいえることだし、二人の愛憎模様や脆い人間の在り方だって通用するはずだ。こんな酷い話でも二人だけの世界は時々どうしようもなく美しくも見える。「究極の愛の物語」だと思う*6。
オフブロや海外の上演では笑いが起こる場面もあるらしい。それは演出の方向性はあるとしても、観客が事件のことを知っていて心の底から嫌悪して断罪する気持ちで観ているからなのではと思う。現場を見てないから想像で言ってる。それはそれでさっきも書いたような暴力性を含んでいて危険な見方ではあると思う。現場を見てないから想像で言ってる(大事)(観たい)。ただ、2021年の日本の観客には事象の前後、中身、記憶の共有がすっぽりないんですよね。だから事件の中身がオフブロの観客とは違う伝わり方をすると思う。そこで成立させるための普遍化、という面はあるのだろうけれど、そこで各ペアがどうだったのか。結論から言うとどれもめっちゃ良かった。個人的にハマったのは松山ペアでした。さっき言った内面と社会の二つの軸のバランスが各ペアで全然違ってびっくりした。だから生の舞台を観に行ってしまうんだよね〜! それぞれの感想は気が向いたら追加するかも……。
印象に残ったのがそれぞれの「私」の照明の使い方。客席から現れて舞台にあがり、振り向く。田代私と松岡私は振り向いた瞬間に顔に照明が当たって顔が見えるんだけど、成河私だけはそこからさらに進んで「何が知りたい?」で顔を上げて、そこでやっと表情が見える。しかもにやりと笑っている。それぞれの「私」の全く異なる在り方が表れていて好きでした。他の場面でも照明の働きが大きくて、「彼」に詰め寄られている時に「私」に当たる光が「私」の思考のめぐりを想像させたり、「私」が話している時にカット割りのような効果を感じさせたり、「語る」照明だった。特徴的な振り付け(?)と抽象的なセットも二人の関係性を視覚化していて面白いなあとか。「契約書」の場面、白線で囲われた正方形の舞台がまるで紙の上のように見えたんだけど、みんなはどう?(突然の質問)
あとやっぱり音楽のことは抜けるわけがない。200席と少ししかないほぼ黒一色の空間にピアノの音が充満している。窒素、二酸化炭素、ピアノって感じ。伝わらない。100分のあいだ酸素の代わりにピアノを吸わされていたら息も詰まる。二人の声とピアノの音(と時々効果音)くらいしか聞こえなくて、視覚的にも聴覚的にもシンプルな空間だから生まれる緊張感と密度があると思った。一曲一曲は曲というより話しているように聴こえた。情報を圧縮して伝えられて飛躍が得意なミュージカル表現の良さ・便利さもありながら、一音一音、一言一言踏みしめるよう。でも同時にメロディが高揚感、疾走感をのせて、色々な感覚が聴き手を包んできて息ができなくなる。窒素、二酸化炭素、ピアノ。その中で「やさしい炎」のメロディアスさが際立つ。恐ろしくて美しくて、ペアにもよるけどロマンチックな場面。「私」と「彼」の愛や鬱屈した気持ちを感じてしまう。欠けている部分を思い、埋めようとしている部分を思いながら観ていると、いつのまにか炎を見つめ安堵している。何か、ああ、この思い出から始まってゆくのだなと。
もう二度と起きてほしくない事件の話ではあるけど今も起こり続けていることの話であると考えているので、犯人たちへの不快感、嫌悪感と同時に、そういう自分も持ってしまっている要素が頭でなく感覚で伝わってくるという共感の快楽と気持ち悪さを感じた。深淵を積極的に覗いていくホリプロの作品選び、大好きだよ。
まつこに復活しないかな……いれこに又はかきこに結成も観てみたい