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ミュージカル『魍魎の匣』 感想 アダプテーションは難しくて、楽しくて、危険で、美しい

オルタナティブシアターでやっていたミュージカル『魍魎の匣』、観に行って参りましたよ~。

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原作の存在は知っていましたが、やはりあの厚さに躊躇して読んでいなかったのでこの際だからと原作、マンガ、アニメ、舞台映像に触れてから行きました。(映画版はなかったものとします……)どれも面白かったですし、原作の面白さに圧倒。あの簡潔でどんどん読める文体、興味深い蘊蓄、そして衝撃の結末。あ、あと『姑獲鳥の夏』も読みました。

文庫で1000pもあると、どの媒体もどうやって尺にみっしりと納めるかがまず問題になるのかな、と色々見て思ったんですが、この作品の面白さって、もちろん話自体の面白さもあるけれど、それよりも「現代」に至る少しだけ前の時代の空気感だったり、登場人物のキャラクター性だったり、一番は京極堂のあの語りにのせられていく楽しさだったりするんじゃないか、とにわかなりに思いました。事前に色々言われていたけど、その点でミュージカルってものすごく合っている形式なのではないかと。

中の人と演出家繋がりで、例えば『フランケンシュタイン』や『シャーロックホームズ』、『ブラックメリーポピンズ』は音楽の力で時間を圧縮したり飛躍させたりしていて、作・演出の板垣恭一さんもおっしゃっていたけどミュージカルとミステリーはものすごく相性がいいのだなと改めて。あと京極堂の「語り」にのせられる楽しみが音楽を聴いてのせられていく楽しさといい感じに融合していたのでは。私はこれをハイスピードジェットコースターミュージカルと名付けることとした(命名)。

それに、お祓い、憑き物落としの儀式と演劇の相性の良さを感じました。術者が(色々言い方はあるけどまとめて「術者」とします)扮装をして立ち回るやつ、もともとコミュニティの維持発展のために行われていた行為が演劇に進化していったわけじゃないですか。そりゃあ相性いいはずでしょう。シリーズの他の作品も演劇にできるのではないですか。板垣さんいかがですか。私は姑獲鳥が観たいです。姉妹のトリックとかも演劇的な嘘がつきやすいと思うんですが。いかがですか。

そのほか演出面でいうと、二階建てのシンプルな空間に衝立や箱で諸々表現するやつ、フランケンで観たやつだし、事件も抽象的に表現してトップスピードで展開していく感じが脳が大変混乱してとても楽しかったです。かといって分かりづらいようなこともなく、時系列や重要な単語は映像で出るから分かりやすくなっているし、コロスの歌と言葉が何重にも重なっていくので複雑なものが複雑なまま襲ってくるというか。原作も中盤くらいまで???の連続で、だんだんとアハ体験していく感じがあって、板垣恭一さん天才か???姑獲鳥もやりません???

大きな変更点で言うと、鳥口、増岡、里村が女性に変更されていたことかな。これはイッツフォーリーズに女性が多いという劇団公演ならではの事情もあったのかもしれないけれど、結果としてものすごくよかったのではと思った。理由は2つあって、まず性別とは何か、そしてプロフェッショナルとは何かが問われたということ。この3役はそれぞれ雑誌編集者、弁護士、医者という全く違う職業を持つ女性たちで、実際昭和の時代に女性編集者はいたらしいけど、弁護士と医者はいたのか、みたいな突っ込みも不可能ではないんですが、それでも役の果たす役割って全然原作と変わってなかったんですよ。里村なんて予告なくあまりにもナチュラルに出てきたので最初性別変更に気がつかなかったくらいだし(鈍感)。我々はすぐに、裏にどんな意図があるにしろないにしろ、性別に意味を求めてしまいがちではないですか。女性は気がつかえるとか、男性だから仕事ができるできないだとか。今回の性別変更に何か意味を期待していた人も多いと思うし、私もそうだし、逆に変な美人属性加わったりしてキャラ変わったらどうしようと考えていた人もいるのではないですか。でも性別変わったくらいで役割は別に変らなかった。そういうものは本当はまやかしなのではないかと。その上で、女性の職業人がまだ少なかった昭和の時代において、加えてこれが上演された現代でもまだ女性の社会進出について色々言われる中で、女性達が爽やかに生きている様子に私は勇気づけられました。

あと言いたいのが、鳥口と増岡が男性のままだったら憑き物落としの場面で陽子が女性一人になってしまったので、狂った女にドン引きする男性たちにもなりかねなかったわけで、バランスが悪かっただろうなと。憑き物落としの場面での増岡と鳥口の演技が細かくて。増岡は原作でもただ職務に忠実な不器用な、かなり普通の、実は優しい人という印象があるのですが、今回神野さんが演じられた増岡もまさにそんな人に見えた。ずっと陽子の言動が分からない、という顔をしているのだけど、美馬坂との過去の話を聞いてはっとした顔になるんです。分かってしまったんだね陽子の気持ちが、たぶん。一方で鳥口はもうずっとドン引きなの、ドン引き。しっかり一線を引いている。だから彼女は編集者を続けていられるのだろうし、増岡は弁護士で、陽子の弁護を引き受けるのだと思う。

全体的な細かい所で言うと、たまにすげー急に歌うじゃんとか、美馬坂のテンション思ったより高いな、とか、この2.5次元感なんだろうな、とか、まあなくはないんですが、歌に関してはああここで時間飛躍するから歌に入って置きたかったんだな、これだけ展開早いとどのキャラも若干テンション高くないとついていけないんだろうな、2.5感は照明とキャラクターの立て方かな、とか納得はするのでまあそこまで気にするところではないかな。2.5に関しては元々こっちのオタクなのでノリやすかったです私は。ノれない人もいたみたいだけど。あとさっきも書いたけどキャラクター性が立ちまくっている作品なので合ってた。ビジュアルもアニメとマンガから少しずつ拝借している感じでおいしかったし、細かい言動も原作の京極堂は意外とちょけるのでその辺もうっすら見えて楽しかった。何より小西さん演じる京極堂の美しすぎる立ち姿でもう元は取れて頼子と加菜子のハーモニーが聴けた時点で儲けが出てるので些細な話なんですけど。こに極堂が出てきて第一声「関口くん、」があまりにも京極堂すぎてびっくりした。

舞台版もすごく良かったから、今更もう一回演劇にする必要あるのか、と少し思いもしたんですけど、ありましたね。冒頭にあげたようなミュージカルならではのよさもたくさんあるんだけど、何より解釈が違ったので。

舞台版は『魍魎の匣』という小説でできた小説の再現と、あと箱を使った演出が特徴だった。原作を読んでいても、事件は家や電車や研究所や、匣の中で起こっていって、登場人物もみんな匣なんですよね、その入り組んだ繋がりを具体化してみましたよ、な演出だと私は思ったんですけど。結果的にかなりおどろおどろしく、彼岸へ行ってしまうことの不気味さや恐ろしさが強かったかな。

今回のミュージカル版は、スピード感ある読書体験の再現に重点が置かれた演出。そしてこれがなんだったのか現地と配信合わせて10回以上観た今でもなんだか正直よくわかっていない。なんだったんだ。これが魍魎ということか……! 怖かった気もするし、取るに足りない話だった気もするし、なんだかめちゃくちゃ美しくて羨ましかったような気がする。

板垣演出作品の特徴だと思うんだけど、役の大小関わらず芝居が細かくて濃い、フランケンもオクトーバースカイもそうだった、究極の全員野球。舞台上で、「いま」「そこで」人間が行なうことを重視している感じがするから、たぶん簡単に解釈みたいなこと言うのが難しい。その方向性と大勢の登場人物の意図が絡みこじれしていく脚本がかけ算起こしてとんでもないことになった。繰り返すようだけど、話は分かるのよ。あと原作ファンの人に怒られそうだけどオチ自体はえっそういう!?みたいなところじゃないですか。でもなんか情念に殴られた。なんだろうあれ。たぶん魍魎。こわ。

一個脚本中での大きい変更、というか解釈を挙げるとするなら、頼子と加菜子の歌に始まって歌に終わる円環構造と、それに伴ってラストシーンが「月明かりの下でなら運命から逃れられる」陽子になっていることだと思うんだけど。これやばくない? まず運命から逃れようとした少女たちの物語であること、月明かりのもとでならそれが叶うこと、死のもとでなら運命から逃れられる、そして頼子と加菜子は運命から逃れられたってコト?!えっっっということは匣の中の娘たち、全肯定……?!久保の原作の独白……?!彼女たちにはこれがわかっていたのだ(だから死んだのだ)……ってコト?!趣旨は原作通りのような気もするけどなんか、ものすごい憧れを感じる美しい終わりかた。あとここ、かとしょさんの久保、それに美馬坂もものすごく満足気な幸せそうな顔をしている。

そしてラストシーンの京極堂の座敷で、各々日常を取り戻してく大切さや得難さも感じる場面だけど、雨宮のことを聞いて羨ましくなってしまう関口。雨宮の様子を歌うコーラスからそのまま発展して幕、なんだけど。待って。彼岸の歌で幕なの。彼岸に行きたくなってしまっただろう。ここをおどろおどろしくやると彼岸へ行こうとすることの警告みたいな終わり方になるのかなと思うんだけど、ミュージカル、そうじゃなかった。彼岸が美しいままなんだ。待ってくれ。私も連れて行ってくれ。

そもそも彼岸てなに?みたいなところは原作ファンの方々が私などよりもよほど丁寧にしっかり説明してくださると思うのでさらっと流すとして、日常の遠くにあるようですぐ近くにあり、一足飛びにいってしまうものもいれば、存在を知っていても行けない人間もいるのではと思うんだよね。京極堂と、陽子も。彼岸と此岸のどっちもを肯定、いやむしろ彼岸に気持ち傾いて終わったな? みたいな。脚本書いたの関口くんだった? みたいな。一見爽やかエンディングなんだけど、よく考えると怖い。いや美しいだけに余計に怖い、彼岸にいってしまいたくなる終わり方なだけに。原作読んでもステでもこんな気持ちにはならなかったのだけど。そちらは関口が語り手だったから。

ちょっと崖の下のぞかされたみたいな気持ちになる終わり方だった。俯瞰じゃなく。こういうのがあるからアダプテーション、好きなんですよね。原作の続きも読もうと思います。あと今回の円盤とCDとオフショットとミュージカルシリーズ化待ってます。

 

バラ♪バラ♪バラバラ事件♪