空気イスで月見 趣味ブログ

偏ってる系偏屈オタク 好きなものは好き

「か弱い天使」の自覚がある天使最高すぎた〜DETONATOR東京〜

2023年末に蒼井翔太さん3rdアルバム『DETONATOR』発売されましたね。

私の通勤時間のお供です。

 

というわけで行ってまいりました、アルバムツアー東京公演。

当日の朝にTwitterを見ていて急に思い立って行ってきたよ!

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(ポスター撮りが下手)

アルバム『S』くらいまでコンスタントに聴いてて、最近またライブアルバムやアルバムをちょくちょく聴いている、にわかとすらいえないそこらへんの人です。

ただ、2018年のQUARTET NIGHTのライブでのパフォーマンスがすごすぎて、この方だけの時間もさぞ楽しいだろうなあ、いつか単独も行きたいなあ、と思ってはいました。有言実行のオタク。

 

完全にロス。もう一回最初から観たい。

初っ端「Free style lover」から3連続でフルボルテージの曲を持ってくる気合にこっちも沸騰したし(衣装とダンスが韓国アイドルぽくてかっこよかわいかった)

その後もものすごい勢いで進んで一瞬で終わってしまった。

たぶん各ブロックにテーマがあるのかなーと思わせる選曲で、テクノポップのブロックもあり、ゴリゴリの重たいロックあり、お衣装変えて物語性の強い曲のブロックあり、「8th heaven」のブロックは「願い」「天使」かなーとか。

こんなにもたくさんの色んなテイストの曲を歌ってきたのだなーとほんっっとうに感動したし、何よりご本人がめちゃめちゃ楽しそう。

各曲色々意図があって、こういうふうに歌おう!ライブだからアレンジしてみよう!こう踊ろう!みたいなのはたぶん何度も稽古して練り上げて持っているんだろうけど、決めたことにとらわれずに心から今のその瞬間を楽しんで演ってらっしゃるのが伝わってきて、なんだかものすごい幸せなライブだった。

あと恐ろしいくらい歌が上手い。知ってたけど何度でもびっくりするうまさ。mcとかの素のお声も心洗われる美しさだけど、声色も表現も柔剛多彩。声の自由度がすごい。歌い手として歌っている曲もあれば、曲の主人公になっているかのような曲もあって、2.5時間に詰め込まれすぎなくらい。

しかもそれを踊りながら、ダンサーさんやバンドさんやファンとコミュニケーションを取りながらできるのが本当に意味がわからない。しかも歌詞モニを置いていないようだった。体力も記憶力も桁違いである。実はロボットとかなんじゃないの?(ご本人も言っていたけど笑)

しかもライブの1番最後に「バチクソに盛り上がりましょう!」と宣言して、歌とダンスがぶっちぎりで激しい「give me ♡ me」を持ってきたのはもう戦慄した。ぶっちゃけ口パクを疑った。本当にごめんなさい。信じられない人間と思えない。マジで歌いながら踊っていた。

「give me ♡ me」の曲調も振り付けも大好きでダンス動画何回も見ちゃっているくらいなので、聴けたのは本当に嬉しかったのだが、超ハイカロリーなライブのラストにこれを持ってくるパワーに震えた。

mcでも「(1日)2公演できる、やらないけど」とおっしゃっていたのは嘘ではないんだろうな。すごいわ………。

終盤mcで「みんなの未来を切り開く剣になりたい、こんなか弱い天使が?って思うかもしれないけど、全く怖くない!」(意訳)とおっしゃっていて、笑いも起こっていたけど笑、むしろ「天使」です宣言をされてもろもろ腑に落ちたし、こんなパワーを振りまくサイコーな存在、きっと何にでもなれるすぎる。ギターのみさみささんもおっしゃってたけど曲によって豹変するんだよね。

 

オタクに「お水おいしい!?!?」されて「これお水じゃないです!ココナッツウォーターです!」してたのもかわいすぎた。

 

セトリが知りたい。

歯ぁ食いしばれ!!!!『推しの子』1話観た

推しの子1話だけ観た。マジで1話しか観てないからこの先覚悟が決まって2話以降を観たらここに書いたことが全部ひっくり返る可能性あるけど、それはそれで面白いから今の時点で思ったことを書く。

 

オタクの身で見るにはめちゃくちゃ覚悟のいるお話でしたし、Twitter中毒患者やってる身としてもめちゃくちゃ覚悟のいるお話でしたね~……それが何となくわかってたから観てなかったんだけどね……

 

ものすごいネタバレをするので歯を食いしばってほしいけれども、「推し」のアイちゃんが死んでしまうシーンを見て、セリフを聞いて、すっごく悲しくて悔しかった一方でアイちゃんよかったね、強くて美しくてアイドルって最高だな愛だわという感想を抱いた自分もおり、というかそっちの方が強かった自分気持ち悪いな今まで一体何を見てた??という気持ち悪さがめちゃくちゃあり落ち込んでいる。

相手は生身の人間だってルビーちゃんも言ってたじゃん?????母親幻想を抱くなってアイちゃんも言ってたじゃん?????

 

↑みたいなキャラのセリフを通したカウンターパンチは作中にもありつつも、SNSを批判したかと思えばネット上の「推し」との交流を肯定するような描写があったり、そもそもofそもそもだが推しの子供に転生してウハウハライフという発想が人間をしっかりと消費していたりもして(アクアくんは踏みとどまろうとしていたけれども)、芸能界の残酷な面を描きながらも、その内部のハラスメントでは?な言動は「当たり前」なものとしてさらっと流されていたり、風刺的なところはあるけれど、批判に徹するわけでもなくむしろ肯定するような感じすらあるのかなーと

 

これは完全に憶測だけど、作者の方は昨今流行りの「推し」とファンの関係を批判したい、というような思いは特に強くなく、舞台装置として単に利用していて、否定も肯定もするつもりはないんだろうか……でもこれをそのまま「在る」ものとして描くには現実に取返しのつかないことが起こりすぎているよなあ、とも思い、この作品を「コンテンツ」として消費することにめちゃくちゃ迷いがある。いや面白かったんだけど。すごい泣いたけど。シャツの袖の色変わるぐらい泣いたけど。

 

ここから復讐ものになっていくのなら、なんか幼女戦記みたいな戦略ものになるのかなあみたいな変な想像もしつつ、ただアクアとルビーの前世の話が絡まないわけもなく、そうすると二人の関係性ってやっぱりファン同士というところから抜けがたくもあり、そうするとアイちゃんの亡くなった2話以降、やっぱりアイちゃんもう偶像にしかなりえないのでは…でも兄弟にとってはお母さんでもあるし……

 

1話でもアイドルは人間か?偶像か?みたいな二元論と、そう割り切れないオタク心理・アイドルの胸中が描かれていたし、なんというか悩みどころである。

アイちゃんを刺したオタクは、アイちゃんが自分の思う偶像ではないのならば殺してしまえという大層身勝手な頭をしているので到底許せないのだが、それを許し受け入れ理想のスターでいてくれたアイちゃんの言葉は、果たして偶像だからこその発言なのか?その言葉が説得力をもつのはやっぱり彼女がスターだからなんだけど、アイちゃんは血の通った人間で、周りのみんなにきれいな夢を見せるというスタンスは彼女が貫いた生き方ではないの?

そのあと犯人が自殺したのも、アイは偶像ではなくて、血の通った一人の人間として生きていた、自分にすら向き合ってくれていた現実のだれかを殺してしまったのだということを理解してしまったからではないのかなあ。それともアイはやっぱり「アイドル」だったと思ったからなのかなあ。両方だと思うんだよなあ。襲った後アイちゃんがあの言葉を言わなければ犯人は自殺しなかったと思う。でもそれを言えちゃうアイちゃんはやっぱスターなんだよなあ。

 

2話以降、マジでお話がどっちにいくのかわからなくて(転生ものにマジで舵を切るのか?アイドル論なのか?アイちゃんは偶像にすぎないのか?視聴者オタクをさらなる悩みのうちに立たせるのか?)ぜんっっっぜん観る覚悟が決まらない。

落ち着いたら観る。たぶん。

藍ルートに感じていた違和感の話

ASとASASの藍ルートをやっていて、なんか綺麗っぽい話だけどそうじゃなくね?となった話。

 

藍ルートは一言で言っちゃえばロボットが心を得て自我を得る感動物語なんですけど(雑)。そして私もめちゃくちゃプレイしてめちゃくちゃ泣きましたけど、あれこれ本当にそれだけかな??という話。ディスるつもりはないが、素直な感動を奪う文章ではあるので無理は方はここで回れ右してください。

 

1 前提として

まず美風藍は人間ではない。彼の所属事務所の社長が出資して作られたアンドロイドであり作中ではソングロボと呼ばれている。そして彼自身が自らの目指すアイドル像を「ボク自身がなりたいアイドル像っていうのはあまりない。ボクはみんなに求められるアイドルになりたいと思ってる。応援してくれるみんなが、美風藍というアイドルを作り上げるんだ。」[1]と説明している。

 

2美風藍は誰のことか

 美風藍にはモデルが存在する。所属事務所の先輩にあたる如月愛音という将来を期待された若手アイドルだったが、プレッシャーで心身を病み10年以上前に失踪している。如月愛音の存在を惜しんだ人間が3人いる。1人目が事務所の社長であるシャイニング早乙女だ。彼は稀有な才能が失われたことを嘆き、莫大な費用を投じてロボットにアイドルを務めさせる実験を始めた。2人目が実験を依頼された博士という人物。実は如月の叔父にあたり、家族とうまくいっていなかった博士だが如月とは親交があった。美風のビジュアルと声に如月のものを使うことを決めたのも博士である。3人目が美風と同じグループに所属するアイドル寿嶺二だ。寿は如月と同級生であり、如月の失踪を止められなかったことを悔やんでいる。3人は、博士の美風に対して如月愛音を投影し、理想を投影している。如月は早乙女にとって望ましい才能を兼ね備えた理想のアイドルだった。博士にとっては愛する甥であり、寿にとっても如月は理想のアイドルでかけがえのない友人であった。それぞれの理想像を投影して生み出されたのが美風藍である。まあ詳しいことはゲームやれば分かるけど、例えば嶺二は藍に会った時「アイネ」と呼びかけて、しばらく納得しない。博士もソングロボ計画に乗ったのは愛音の影を追ってだろう。

 ロボットである美風は歌やダンスの技術面では正確無比の高いクオリティを有しているが、感情を持たないことで生まれる軋轢や表現の乏しさの克服がゲームのシナリオの大筋となる。まずデビュー直前に彼は人間社会で生活するための教育を受ける。マナーやルールはもちろんだが、様々な文学や映像作品に触れ感想を述べる形での情操教育も施された。当然ロボットであるため、周りの人間が求めるような感想は出てこず美風は困惑し、それに対し人間たちは温かく見守る姿勢を見せていた。しかしストーリーの終盤、主人公春歌と藍自身が3人の支配を受けず活動を続けるために美風自身のシステムの一部を破壊する行動に出た時、周囲の反応は冷たい。明らかに彼らが求めていたような自我や欲求が表れているにも関わらず、彼らの理想を逸脱しようとする行動は彼らを困惑させた。

また反対に、彼は大きな自己犠牲によって主人公への愛を証明したが、自らを破壊するまでに至らなければ自分が人間と共に生きられることを証明できなかったといえる。事実、その後美風自身がアイドル活動を続けたい意志を知り、主人公への強い思いも理解した博士たちは独り立ちした美風藍を認めている。

この自己犠牲→承認のプロセスは明らかに、美風藍がアンドロイドだから求められていて、だからこそ逆に求められたものといいますか。アンドロイドなら、息切れすることも音を外すこともなく「完璧な」パフォーマンスを行うことができる。しかし周りの人間たちが求めたのは完璧さでなく、人間の持つような揺らぎやそれに依ったパフォーマンス性である。よって、完璧であるはずのアンドロイドは永遠に完璧なアイドルになることは本来ないはずだった。それが自己犠牲によって「人間らしさ」が発生し、彼は3人に認められるに至ったのである。ここには第一に、完全無欠なロボットに人間が勝てる部分が存在するという強い主張があると思う。3人は如月の代わりが欲しいと願いながらも代わりなどいないと考えていて、特に早乙女と寿はロボットにアイドルが務まるとは考えたくないのである。第二に、歩みよるのは人間でなくロボットの側であり、ロボットが完全性を失い、人間の目的に沿う形でしか存在し得ない。周りの人間たちの歪んだ支配欲を読み取ることができるんじゃないだろうか。美風藍は自立前も後も周りの人間の理想を体現する存在なのだ。そもそも美風が作られた理由は如月が周囲のプレッシャーによって失踪したことが原因であったが、周りの人間たちは同じようなことを繰り返している。この意味で本作はアイドルという周囲に見られながら表現をし続ける職業について、皮肉な視点を提示している。ここから脱け出すには、嶺二、博士、社長が藍と愛音は別の人間だと本当の意味で解る必要があるのではないかと思うけど、ASASでその兆しはあったので早くDolce Vita出してください。

 

 「みんなに愛されるアイドル」の「みんな」とは誰なのだろう。もちろん、彼は彼のファンを想定して発言しているだろう。そして、周りの人間たちも含まれるだろう。美風藍を開発し、作ったのは周りの人間たちであり、現在のような完璧でないアイドル像へ導いたのも周りの人間たちである。だとするならば、美風のファンたちは彼の何を見てかわいいと発言しているのかというと、彼の周囲の人間が投影した像とファン自身が投影する美風藍像と言えるだろう。確かに公式プロフィール通り、「見た目は綺麗で可愛いが、言動はさっぱり可愛くない。」[4]のである。さらにうたプリが複雑なのは、アイドルたちが「実在」しているとオタクが信じていて、その裏話も表舞台も全ての「物語」をオタクたちが共有しているところだと思う。つまり、オタクたち、全部わかった上で「感動」している。これは輪をかけてグロテスクじゃないか。

 

一応もう一回弁解しておくけど、うたプリに恨みがあるとか社長が嫌いとか全然そんなことはないです。そうじゃなくて、AIと人間みたいな割と新し目な(新しくはないか?)設定で人間模様を描く乙女ゲーを作ってみたらめちゃ面白いけど、AIと人間の歩み寄りの限界も垣間見えますねと言いたい。逆にそこまで書いてるゲームライターさんはすごいと思う。あとASASで前進の兆しが見えるのもすごいと思うから早く先を見せてほしい。

Dolce Vita発売いつですか?

 

 

[1] 電撃Girl’sStyle編集部『うたの☆プリンスさまっ♪ 5th Anniversari Book』KADOKAWA、2016年、124p

[2]うたの☆プリンスさまっ♪ キャラクター」うたの☆プリンスさまっ♪公式ホームページ https://www.utapri.com/character.php (2022年11月13日閲覧)

[3] 菊地浩平『人形メディア学講義』河出書房新社、2018年、310-311p

[4]うたの☆プリンスさまっ♪ Debut キャラクター」うたの☆プリンスさまっ♪ Debut 公式サイトhttps://www.utapri.com/game/debut/character_ai.php (2022年11月13日閲覧)

『こころ』を久しぶりに読んだら面白くなかった

色々あって読み返したんだわ、夏目漱石の『こころ』。高校の時教科書に載ってる世代だったから一度読んでいる。その時は「私」かわいいな〜先生のこと大好きだな〜とか、先生の偏屈さがつらい…!とか、先生とK絶対付き合ってるだろとか言いながらけっこう楽しく読んだ記憶があるんだけど、読み返したら全然面白くなかった。マジで? まあ記憶が改竄されている可能性もなくはない。

正確に言うと、「私」が語り部の上と中は割と楽しく読めた。下がダメだった。実を言うと下の途中で脱落してしまったので厳密には読み返せていなかったりする。読んでねって言ってくれた人ごめん。でもだめだった。

「私」の語りには、まあ大体高校当時と同じような感想。こいつマジでめちゃくちゃかわいいな。受けにしてやろうかと腐女子筆者。なんかかわいいじゃん。人間が出来上がっていなくて。女と抱き合うための準備段階として先生のところへ行ったんだよお前はみたいな。すごい身の振り方暗中模索しててかわいいんだわ。卒論適当に仕上げててかわいいよ。先生のちょっとした言動にす〜ぐ振り回されてあれこれ考えててめちゃくちゃかわいいじゃん。しかもこれ「私」が思い返して書いてる体でしょ? 先生が亡くなってしばらくしてからも先生のことを考え続けてるってことじゃん? 今が昔ならオタク又の名を読者に「クソデカ感情」って言われるやつだよオタク知ってる。

でもな、下でな、先生のクソデカ自意識の語り聞かされるの、筆者しんどかった。無理だった。こいつ何なの? が先行しすぎて感情移入もクソもなかった。クソ。いや、Kも、Kもよ。巨大自意識の自意識バトル、仮想敵との虚無へ向かってのバトルとでも言おうか、読んでてマジでしんどかった。お前たちの話は聞いてないんだよ。いやそれ言っちゃおしまいなんだけど。先生は明治の時代と心中し、Kと時間差心中し、この巨大自意識と心中することで一つの時代とともに終わっていったんだわ、って思うことにした。永遠に終わっててくれ……!

ここまでだとただの罵詈雑言なので多少まともに自分の感想を考えると、クソデカの功罪なのかなと思った。「私」のクソデカは若さ未熟さで許せるのと、先生が巧妙に一線を引き続け(まだいけるかもと思わせる引き方なのが非常に悪質なんだけれども)依存まではいってなかったり、2人の年齢差もあるから2人が共有しているものは少なかったりして、たぶんこれ以上何も起こらない2人だと思うんだな。「私」はほぼ確実に別の人間のところに行くと思う。

でも先生とKのいきさつなんか読むと、お互いに与え奪いしてきて、壮絶なマウントの取り合いが存在していて、でもなんか2人ともそれを自覚していないっぽく先生が懐古している感じがするじゃん? お互いの急所を完全に分かっててお互いに駆け引きに近いことをほぼ無自覚にしている(ように先生が遺書を書いている)。それによって失われたものがさあ、細君の人生だったり、それぞれの縁故ある人たちだったり、もちろん本人たちの人生だってぐっちゃぐちゃになっているわけじゃん。これをさ、お互いの想いが地獄化してしまった結果2人のワンダーランドを作らざるを得ないメリバと考えてホイホイするのも別に全然解釈の自由だと思うし、自分も初めて読んだ時は割とそう思ったけど、なんか読み返して観たらそんな周りの人間も何もかも全てを壊してできたワンダーランド、私はおいしくいただくことはできないなと思ったのだった。誰も悪くないっていうか完全に2人が悪いじゃん? っていうか2人のこの迷惑すぎる自意識を生んでしまった周りの人間や時代が悪いのでしょうか。まあ善悪の問題じゃあないけどね。以上。

 

同じ作者でも幻影の盾やら薤露行やら琴のそら音やらファンタジー色強めなものはけっこう面白かったんですが……。

ミュージカル『魍魎の匣』 感想 アダプテーションは難しくて、楽しくて、危険で、美しい

オルタナティブシアターでやっていたミュージカル『魍魎の匣』、観に行って参りましたよ~。

www.allstaff.co.jp

 

原作の存在は知っていましたが、やはりあの厚さに躊躇して読んでいなかったのでこの際だからと原作、マンガ、アニメ、舞台映像に触れてから行きました。(映画版はなかったものとします……)どれも面白かったですし、原作の面白さに圧倒。あの簡潔でどんどん読める文体、興味深い蘊蓄、そして衝撃の結末。あ、あと『姑獲鳥の夏』も読みました。

文庫で1000pもあると、どの媒体もどうやって尺にみっしりと納めるかがまず問題になるのかな、と色々見て思ったんですが、この作品の面白さって、もちろん話自体の面白さもあるけれど、それよりも「現代」に至る少しだけ前の時代の空気感だったり、登場人物のキャラクター性だったり、一番は京極堂のあの語りにのせられていく楽しさだったりするんじゃないか、とにわかなりに思いました。事前に色々言われていたけど、その点でミュージカルってものすごく合っている形式なのではないかと。

中の人と演出家繋がりで、例えば『フランケンシュタイン』や『シャーロックホームズ』、『ブラックメリーポピンズ』は音楽の力で時間を圧縮したり飛躍させたりしていて、作・演出の板垣恭一さんもおっしゃっていたけどミュージカルとミステリーはものすごく相性がいいのだなと改めて。あと京極堂の「語り」にのせられる楽しみが音楽を聴いてのせられていく楽しさといい感じに融合していたのでは。私はこれをハイスピードジェットコースターミュージカルと名付けることとした(命名)。

それに、お祓い、憑き物落としの儀式と演劇の相性の良さを感じました。術者が(色々言い方はあるけどまとめて「術者」とします)扮装をして立ち回るやつ、もともとコミュニティの維持発展のために行われていた行為が演劇に進化していったわけじゃないですか。そりゃあ相性いいはずでしょう。シリーズの他の作品も演劇にできるのではないですか。板垣さんいかがですか。私は姑獲鳥が観たいです。姉妹のトリックとかも演劇的な嘘がつきやすいと思うんですが。いかがですか。

そのほか演出面でいうと、二階建てのシンプルな空間に衝立や箱で諸々表現するやつ、フランケンで観たやつだし、事件も抽象的に表現してトップスピードで展開していく感じが脳が大変混乱してとても楽しかったです。かといって分かりづらいようなこともなく、時系列や重要な単語は映像で出るから分かりやすくなっているし、コロスの歌と言葉が何重にも重なっていくので複雑なものが複雑なまま襲ってくるというか。原作も中盤くらいまで???の連続で、だんだんとアハ体験していく感じがあって、板垣恭一さん天才か???姑獲鳥もやりません???

大きな変更点で言うと、鳥口、増岡、里村が女性に変更されていたことかな。これはイッツフォーリーズに女性が多いという劇団公演ならではの事情もあったのかもしれないけれど、結果としてものすごくよかったのではと思った。理由は2つあって、まず性別とは何か、そしてプロフェッショナルとは何かが問われたということ。この3役はそれぞれ雑誌編集者、弁護士、医者という全く違う職業を持つ女性たちで、実際昭和の時代に女性編集者はいたらしいけど、弁護士と医者はいたのか、みたいな突っ込みも不可能ではないんですが、それでも役の果たす役割って全然原作と変わってなかったんですよ。里村なんて予告なくあまりにもナチュラルに出てきたので最初性別変更に気がつかなかったくらいだし(鈍感)。我々はすぐに、裏にどんな意図があるにしろないにしろ、性別に意味を求めてしまいがちではないですか。女性は気がつかえるとか、男性だから仕事ができるできないだとか。今回の性別変更に何か意味を期待していた人も多いと思うし、私もそうだし、逆に変な美人属性加わったりしてキャラ変わったらどうしようと考えていた人もいるのではないですか。でも性別変わったくらいで役割は別に変らなかった。そういうものは本当はまやかしなのではないかと。その上で、女性の職業人がまだ少なかった昭和の時代において、加えてこれが上演された現代でもまだ女性の社会進出について色々言われる中で、女性達が爽やかに生きている様子に私は勇気づけられました。

あと言いたいのが、鳥口と増岡が男性のままだったら憑き物落としの場面で陽子が女性一人になってしまったので、狂った女にドン引きする男性たちにもなりかねなかったわけで、バランスが悪かっただろうなと。憑き物落としの場面での増岡と鳥口の演技が細かくて。増岡は原作でもただ職務に忠実な不器用な、かなり普通の、実は優しい人という印象があるのですが、今回神野さんが演じられた増岡もまさにそんな人に見えた。ずっと陽子の言動が分からない、という顔をしているのだけど、美馬坂との過去の話を聞いてはっとした顔になるんです。分かってしまったんだね陽子の気持ちが、たぶん。一方で鳥口はもうずっとドン引きなの、ドン引き。しっかり一線を引いている。だから彼女は編集者を続けていられるのだろうし、増岡は弁護士で、陽子の弁護を引き受けるのだと思う。

全体的な細かい所で言うと、たまにすげー急に歌うじゃんとか、美馬坂のテンション思ったより高いな、とか、この2.5次元感なんだろうな、とか、まあなくはないんですが、歌に関してはああここで時間飛躍するから歌に入って置きたかったんだな、これだけ展開早いとどのキャラも若干テンション高くないとついていけないんだろうな、2.5感は照明とキャラクターの立て方かな、とか納得はするのでまあそこまで気にするところではないかな。2.5に関しては元々こっちのオタクなのでノリやすかったです私は。ノれない人もいたみたいだけど。あとさっきも書いたけどキャラクター性が立ちまくっている作品なので合ってた。ビジュアルもアニメとマンガから少しずつ拝借している感じでおいしかったし、細かい言動も原作の京極堂は意外とちょけるのでその辺もうっすら見えて楽しかった。何より小西さん演じる京極堂の美しすぎる立ち姿でもう元は取れて頼子と加菜子のハーモニーが聴けた時点で儲けが出てるので些細な話なんですけど。こに極堂が出てきて第一声「関口くん、」があまりにも京極堂すぎてびっくりした。

舞台版もすごく良かったから、今更もう一回演劇にする必要あるのか、と少し思いもしたんですけど、ありましたね。冒頭にあげたようなミュージカルならではのよさもたくさんあるんだけど、何より解釈が違ったので。

舞台版は『魍魎の匣』という小説でできた小説の再現と、あと箱を使った演出が特徴だった。原作を読んでいても、事件は家や電車や研究所や、匣の中で起こっていって、登場人物もみんな匣なんですよね、その入り組んだ繋がりを具体化してみましたよ、な演出だと私は思ったんですけど。結果的にかなりおどろおどろしく、彼岸へ行ってしまうことの不気味さや恐ろしさが強かったかな。

今回のミュージカル版は、スピード感ある読書体験の再現に重点が置かれた演出。そしてこれがなんだったのか現地と配信合わせて10回以上観た今でもなんだか正直よくわかっていない。なんだったんだ。これが魍魎ということか……! 怖かった気もするし、取るに足りない話だった気もするし、なんだかめちゃくちゃ美しくて羨ましかったような気がする。

板垣演出作品の特徴だと思うんだけど、役の大小関わらず芝居が細かくて濃い、フランケンもオクトーバースカイもそうだった、究極の全員野球。舞台上で、「いま」「そこで」人間が行なうことを重視している感じがするから、たぶん簡単に解釈みたいなこと言うのが難しい。その方向性と大勢の登場人物の意図が絡みこじれしていく脚本がかけ算起こしてとんでもないことになった。繰り返すようだけど、話は分かるのよ。あと原作ファンの人に怒られそうだけどオチ自体はえっそういう!?みたいなところじゃないですか。でもなんか情念に殴られた。なんだろうあれ。たぶん魍魎。こわ。

一個脚本中での大きい変更、というか解釈を挙げるとするなら、頼子と加菜子の歌に始まって歌に終わる円環構造と、それに伴ってラストシーンが「月明かりの下でなら運命から逃れられる」陽子になっていることだと思うんだけど。これやばくない? まず運命から逃れようとした少女たちの物語であること、月明かりのもとでならそれが叶うこと、死のもとでなら運命から逃れられる、そして頼子と加菜子は運命から逃れられたってコト?!えっっっということは匣の中の娘たち、全肯定……?!久保の原作の独白……?!彼女たちにはこれがわかっていたのだ(だから死んだのだ)……ってコト?!趣旨は原作通りのような気もするけどなんか、ものすごい憧れを感じる美しい終わりかた。あとここ、かとしょさんの久保、それに美馬坂もものすごく満足気な幸せそうな顔をしている。

そしてラストシーンの京極堂の座敷で、各々日常を取り戻してく大切さや得難さも感じる場面だけど、雨宮のことを聞いて羨ましくなってしまう関口。雨宮の様子を歌うコーラスからそのまま発展して幕、なんだけど。待って。彼岸の歌で幕なの。彼岸に行きたくなってしまっただろう。ここをおどろおどろしくやると彼岸へ行こうとすることの警告みたいな終わり方になるのかなと思うんだけど、ミュージカル、そうじゃなかった。彼岸が美しいままなんだ。待ってくれ。私も連れて行ってくれ。

そもそも彼岸てなに?みたいなところは原作ファンの方々が私などよりもよほど丁寧にしっかり説明してくださると思うのでさらっと流すとして、日常の遠くにあるようですぐ近くにあり、一足飛びにいってしまうものもいれば、存在を知っていても行けない人間もいるのではと思うんだよね。京極堂と、陽子も。彼岸と此岸のどっちもを肯定、いやむしろ彼岸に気持ち傾いて終わったな? みたいな。脚本書いたの関口くんだった? みたいな。一見爽やかエンディングなんだけど、よく考えると怖い。いや美しいだけに余計に怖い、彼岸にいってしまいたくなる終わり方なだけに。原作読んでもステでもこんな気持ちにはならなかったのだけど。そちらは関口が語り手だったから。

ちょっと崖の下のぞかされたみたいな気持ちになる終わり方だった。俯瞰じゃなく。こういうのがあるからアダプテーション、好きなんですよね。原作の続きも読もうと思います。あと今回の円盤とCDとオフショットとミュージカルシリーズ化待ってます。

 

バラ♪バラ♪バラバラ事件♪

『スリル・ミー』初心者の戯言

前おき

2020年に色々あって小西遼生さんにハマった。

konishiryosei.com

好き。

過去作を追う内にこんなものを見つけた。

keitahaginiwa.com

バナナ????何か全然わからないけどやばそうなことは分かった。

テレビでちらっと歌っていた松下洸平さんの声がとてもきれいで、声の相性の良さというのは大層気になる。買った。

 で、

 

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4月7日18時公演 松岡広大×山崎大樹ペア(以下松山ペア)

 

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4月9日13時公演 田代万里生×新納慎也ペア(にろまり)

 

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4月9日18時公演 成河×福士誠治ペア(成福)

 

行った。

 

『スリル・ミー』というお話

色々通り越して10周くらいしてすげーよくできた戯曲だなと思った。

物語の軸としてはざっくり二つあるんじゃなかろうか。一つ目は二人の内面。二つ目は社会。広義での文脈と言った方が良いかな。このふたつがものすごい絡み方をしているなと。

まず、この作品の元になった「レオポルドとローブ事件」。裕福なユダヤ人家庭に育った青年二人が14歳の子供を「スリルのため」「自分が『超人』だと証明するため」に殺してしまった、という卑劣極まりない事件で、wikiの参考文献をお散歩する限りアメリカではとても有名な事件らしい。恥ずかしながら知らなかった。二人は死刑は免れないだろう、と思われていたけれど、死刑反対論者のクラレンス・ダロウの熱い弁護によって99年の懲役刑と終身刑に処され、ローブは刑務所で他の囚人に刺され死亡、レオポルドはのちに釈放、病死。当時の新聞やダロウの回想録*1を読むと当時の人々の「正しい」怒りが伝わってきて面白い。面白がっている場合ではないな。興味深い。ローブの幼少期のエピソードや*2、精神鑑定で二人の人格の歪みを説明しようとしていたり。これ、いまの日本で凶悪犯罪が起きた時の反応とそんなに変わっていないんじゃないか? 弁護士のダロウも二人の弁護に精神鑑定を大いに用いていて、二人は「異常な」状態にあったからそんな凶行に走っても仕方なかったんだ、むしろ哀れむべきだとでもいうよう。

 でも、そうやって切り捨ててしまっていいんだろうか。

 二人はとても裕福な家庭に育ち、頭もとても良かったそう。ありていに言えば上の人間。他の人の上に立っていることが普通な人間たちだった。二人はそれを当たり前だと思っていて、他のもの、弱いものを踏みつけることに躊躇がない。それは子供を殺すということに繋がっていくし、「彼」を手に入れるため行動した「私」の行動の根底にあるのも同じ暴力性なんじゃないかと思う。

 そういう彼らを異常なものとして哀れみ、怒り、外側においてしまうこと。それもまた二人が持っていたのと同じ種類の暴力性だと思えてならない。そもそも二人が当たり前に持っていた裕福・貧困、天才・凡人、弱者・強者の格差観はもともと社会のものだから。

 そんな彼らが信奉していたニーチェ思想がどんなものか、高校の頃を思い出す……ああ、倫理のテストで◯点を取った時……くらいのレベルだったのでなんか参考になりそうなやつ探して

 

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

 

入門という単語で見つけて読んだけどマジで分かった気がしない。有識者の見解求む。二人とも本当に頭が良かったんだなあ(いいのかそれで)。これ多分すごい分かりやすく説明しようとものすごい頑張ってくださっているのは伝わってくるんだけど、ごめん凡人無理だった。

 愚痴が長くなったのでスリミに直接関わりがあってかつ分かった範囲でまとめると、資本主義の矛盾を解決するためにマルクス主義ニーチェ思想が生まれたよ、でもニーチェは言葉が過激すぎて優生思想や特権主義と結びつけられちゃったよ、ニーチェが言いたかったのは低い平均値に甘んじるより人類の上昇を志向することができる個人(=超人)の創造を目指すことだよ、という感じ。別に凡人はカスだとかそういうことじゃない。認識論の話は面倒なのでまた今度。(日本人のいう今度は永遠に来ない)

ただ、彼らが生きていた1900年代前半ではまだそういう読みはされていなくて、危険思想っぽかった。二人は飛び級するほどの天才だったそうだから、ニーチェの崇高な理想の香りに酔いしれたのかもしれないし、ただ特権を与えてくれる読み方に流されていた普通の脆い人間なのかもしれない。いまとなってはどっちかはもうわからない。(蛇足:あとニーチェ反ユダヤ主義者ではないんだけど、ユダヤ教起源批判、痛烈なキリスト教批判があるのでユダヤ人である彼らがどう読んだのか気になるところではある。が、二人とも熱心なユダヤ教信者ではなかったっぽい。それに米社会のユダヤ人差別がどう影響していたのかは気になるなあ。自分が持つ被差別アイデンティティであるユダヤ教から発展したキリスト教を批判しているから、ニーチェが魅力的に映ったのかな、と思ったり。民衆も二人がユダヤ人だったから過激な反応になったのでは? なんて。二人の行動は許されることじゃないけど。)

 この社会と二人の接するところに色々な「力」が働いていて、そこで『スリル・ミー』は犯罪の動機を二人の関係性ゆえだった、として二人の内面に強烈な力関係を与えている。それは主ー従であったり、愛憎、依存、惚れている/いないであったり、「言葉にするのは難しい」のだが、二人の駆け引きで力関係が終始拮抗し、逆転し、物語が動いていく。二人が内面化した力と二人の間にある力、二人の周りにある力がリンクしている。 

これも蛇足。スリミを元気に観に行ったということはご多分に漏れずしっかり腐の身分でありまして、マンガやらアニメやらなにやら摂取する中でふと疑問に思ったのが男同士のクソデカはいっぱいあるけど女同士のクソデカってあんまりないな、と。あっても理由が必要だったり何かに阻まれたりしてない? なんで? という答えの一つがスリミなのかなあ。女同士だとこういう強烈な力がなんでかわからないけど最初から付与されていない、ような気がする。

 最後にマジでやばいなと思ったのが、入れ子構造。入れ子構造の戯曲自体は時間の行き来をまとめるのによく使われるし別に珍しくもなんともないんだが*3『スリル・ミー』に関しては「私」が語り手であることで時間の整理や、「彼」自身と「私」が思う「彼」の二重のイメージができることだけじゃなく、ここまで3000字近く使って書いたことが全部ぶっ壊れる可能性が生まれていることがやばいと思う。サイコか? 狐につままれたとはこのことよ。おれたちは「私」、いやステファン・ドルギノフという「超人」の手のひらの上で転がっていただけなのか……!

 

どこでどうやるか

 まあそんなことを言いつつも、これだけ大きな背景を抱えている作品が上演される時代・場所は中身(の受け取られ方)に大きく作用する、当然ながら。オフ・ブロードウェイでは実際の犯人の名前で上演されたそうだけど*4、日本版は普遍的な物語にするために固有名詞を徹底的に省いたと演出家の栗山民也談*5。なるほど確かにそうだろう。先に書いたような格差・暴力は日本でもいえることだし、二人の愛憎模様や脆い人間の在り方だって通用するはずだ。こんな酷い話でも二人だけの世界は時々どうしようもなく美しくも見える。「究極の愛の物語」だと思う*6

 オフブロや海外の上演では笑いが起こる場面もあるらしい。それは演出の方向性はあるとしても、観客が事件のことを知っていて心の底から嫌悪して断罪する気持ちで観ているからなのではと思う。現場を見てないから想像で言ってる。それはそれでさっきも書いたような暴力性を含んでいて危険な見方ではあると思う。現場を見てないから想像で言ってる(大事)(観たい)。ただ、2021年の日本の観客には事象の前後、中身、記憶の共有がすっぽりないんですよね。だから事件の中身がオフブロの観客とは違う伝わり方をすると思う。そこで成立させるための普遍化、という面はあるのだろうけれど、そこで各ペアがどうだったのか。結論から言うとどれもめっちゃ良かった。個人的にハマったのは松山ペアでした。さっき言った内面と社会の二つの軸のバランスが各ペアで全然違ってびっくりした。だから生の舞台を観に行ってしまうんだよね〜! それぞれの感想は気が向いたら追加するかも……。

 印象に残ったのがそれぞれの「私」の照明の使い方。客席から現れて舞台にあがり、振り向く。田代私と松岡私は振り向いた瞬間に顔に照明が当たって顔が見えるんだけど、成河私だけはそこからさらに進んで「何が知りたい?」で顔を上げて、そこでやっと表情が見える。しかもにやりと笑っている。それぞれの「私」の全く異なる在り方が表れていて好きでした。他の場面でも照明の働きが大きくて、「彼」に詰め寄られている時に「私」に当たる光が「私」の思考のめぐりを想像させたり、「私」が話している時にカット割りのような効果を感じさせたり、「語る」照明だった。特徴的な振り付け(?)と抽象的なセットも二人の関係性を視覚化していて面白いなあとか。「契約書」の場面、白線で囲われた正方形の舞台がまるで紙の上のように見えたんだけど、みんなはどう?(突然の質問)

あとやっぱり音楽のことは抜けるわけがない。200席と少ししかないほぼ黒一色の空間にピアノの音が充満している。窒素、二酸化炭素、ピアノって感じ。伝わらない。100分のあいだ酸素の代わりにピアノを吸わされていたら息も詰まる。二人の声とピアノの音(と時々効果音)くらいしか聞こえなくて、視覚的にも聴覚的にもシンプルな空間だから生まれる緊張感と密度があると思った。一曲一曲は曲というより話しているように聴こえた。情報を圧縮して伝えられて飛躍が得意なミュージカル表現の良さ・便利さもありながら、一音一音、一言一言踏みしめるよう。でも同時にメロディが高揚感、疾走感をのせて、色々な感覚が聴き手を包んできて息ができなくなる。窒素、二酸化炭素、ピアノ。その中で「やさしい炎」のメロディアスさが際立つ。恐ろしくて美しくて、ペアにもよるけどロマンチックな場面。「私」と「彼」の愛や鬱屈した気持ちを感じてしまう。欠けている部分を思い、埋めようとしている部分を思いながら観ていると、いつのまにか炎を見つめ安堵している。何か、ああ、この思い出から始まってゆくのだなと。

 もう二度と起きてほしくない事件の話ではあるけど今も起こり続けていることの話であると考えているので、犯人たちへの不快感、嫌悪感と同時に、そういう自分も持ってしまっている要素が頭でなく感覚で伝わってくるという共感の快楽と気持ち悪さを感じた。深淵を積極的に覗いていくホリプロの作品選び、大好きだよ。

 

まつこに復活しないかな……いれこに又はかきこに結成も観てみたい

 

*1:クラレンス・ダロウ(柴嵜雅子訳)「わが生涯の物語」『大阪国際大学国際研究論叢 22巻3号』、p141-151 名前でググるとすぐ出てくる

*2:https://web.archive.org/web/20130606075335/http://www.leopoldandloeb.com/leopold.htm ,英弱だから読解間違ってたら恥ずかしい。ご指摘ください。

*3:エリザベート』、『ポーの一族』、『ミュージカル フランケンシュタイン』、『ブラック メリーポピンズ』、『ミュージカル 生きる』、『ミュージカル GOYA』、『子午線の祀り』、『夏の夜の夢』、などなど偏らせて挙げたけどまだまだ他にもある

*4:

The Sweet Seduction of Murder - The New York Times

英語圏上演の記事で読めた中ではこれが一番好きだった。「やさしい炎」がめっちゃいいとか、説教くさくないとか、わかる~って感じ。

*5:2021年公演パンフレットより。もともと韓国版から省かれているらしいが。

*6:https://horipro-stage.jp/stage/thrillme2021/ まりおさんのコメントより

森の奥に向かったつもりが血染めの世界だった 2代目『BLOODY SHADOWS』東京公演感想

薄々分かってはいたけどこんなにこんなだとは聞いてないよ!!!

ですがまず、今回の公演開催を決定し、対策を固めこれまで運営を進めてくださっているスタッフの方々、そして毎度のことながら大変な重圧と物量の中出演してくださったキャストの方々に感謝申し上げたいです。このような状況の中公演を行うという判断は難しいことが多々あったかと思います。「いま」「ここで」「これを」観られたことの奇跡を噛み締めております。これから先の公演も無事に終えられますように、ただの一ファンではありますが祈っております。

 

注意書き

筆者は

2代目劇団シャイニング全肯定

若手俳優さんについてはあまり知識がない

人より少し舞台が好きだけどずぶの素人

ゲーム本編プレイ済みのうたプリファン

美風担

です。以上をご理解いただいた上、読み進めてください。また、筆者が参加した11月6日昼公演の内容・状況に基づいた感想や考察がありますが、正確な情報である保証は全くできません。

以下大いにネタバレを含みます。

 

とんでもないものを観た。ありきたりな言葉かもしれないが。

吸血鬼を題材にした美しい世界観のダークファンタジーだと各所で宣伝されていたし、シアターシャイニング『BLOODY SHADOWS』(初代と呼ぶことにします)は「薔薇」「月」が印象的な作品で、今回もカンストした美と悲哀が観られることを何となく思い描いて劇場に向かいましたが、まさか

人間性に挑戦してくるとは思わなかった

まあよくよく考えれば原作うたプリもアイドルたちがなかなか理不尽な目にあったり四苦八苦したり、足掻いたり、その他シリーズでもうたプリはそれなりに重いテーマをいままで扱ってきていましたね。これもまたうたプリ

えっでもここまですると思わないじゃん………観劇後に目の前に伸びるのはひたすら地獄へと続く長い長い道のりなんですけど………?

 

劇場に入った途端森へと誘われる。薄暗い照明、豪華なセットで表現された森林、階段、浮かび上がる"BLOODY SHADOWS"の文字、バロック調の音楽。これが吸血鬼たちのいる森……!

開演前アナウンスでびっくり!アイレスの声と話し方がめちゃくちゃ初代に寄せられている!すげぇ!普通に感動し慄いていると音楽のボリュームが下がって客電が落ちて幕が上がる!

 

始まったのは初代のラストシーンだった。繰り返し聴いて夢にまで観たあの場面が。そして開幕数分も経たず衝撃の事実が発覚した。マサフェリーをバンパイアにしたのはウォーレンだった。何となくアイレスがマサフェリーを噛んだのかと思っていたが違った。事実は想像を超えてきた。そして今回も結婚式のようなセリフ、演出だった。立ち位置から考えてもアイレスとウォーレンは司祭、マサフェリーの相手は何なのか、ウォーレンはマサフェリーを噛むから司祭とも取れるし、あるいは。初代でマサフェリーは、婚約者の身代わりになるため仲間になることを提案し、いやむしろ主張しアイレスに聞き入れられた。でもウォーレンはそもそも自分で婚約者を逃したくて、それは無理だと諦めマサフェリーに託そうとし、そのマサフェリーが自分の行く末も知らずバンパイアになるなどと言い出した。(どうでもいいが個人的に、レンくんが結末に納得していないと言っているのは自分ならなりふり構わず婚約者ちゃんを連れて逃げるのにということだ思っている。)これがじっとしていられるわけがないじゃん……。それでも彼は2人に押されてしまったわけで(たぶんレンくんはそこが納得いかなくて)。ウォーレンがマサフェリーの血を飲むのは、せめて自分の手で的な悲しい愛情も感じるけれど、吸血行為自体がそもそもエロティックだけど…そういうBL的な騒ぎ方だけじゃなく、ウォーレンが引きずるものの大きさに目がいって。人ならざるものが長い間でおそらく唯一心を許せた人間の魂を自分の手で引きずりこまなければならない。ホメロスとアイレスの関係は気に入った「から」仲間に引き入れよう!だったのに対してウォーレンは「けれど」「そうせねばならない」部分があるのが辛い。だけど「だから」の部分もある。彼は「人間とバンパイアが分かり合える道があると思うのなら自分で確かめてみろよ」というような若干投げやりな怒りも持っていそうで、三角関係に気がつかない鈍感さやバンパイアの未来を信じられる「幸せな」マサフェリーを誰よりも憎んで恨んでいて、でもそんな不器用で純粋な男だから付き合えたし、でもその男を汚すのは自分なんでしょ……。そりゃあマサフェリーに過保護気味にもなる、アイレスも嫉妬をする。人ならざるものだったとしても、こういうウォーレンの器用そうで不器用なところは人間だなぁと思うだけに、人間だった頃の回想がとても辛かった。そして今回ウォーレンを演じてらっしゃる高本さんがキュートな方なので余計辛い。頭痛がする辛さ。少年時代のお芝居がピュアでかわいくてかわいそうで、それをアイレスに語るバンパイアのウォーレンはかわいそうで、かわいいはかわいそう……。

もう途中の転換は色々アレなので勢いよく飛ばして結末に行く。真実を知った彼らが求めた人間性は、人間と吸血鬼が共存できる世界という当初の目的でも、人間に戻る術を探すということでもなかった。彼らはたとえ自分たち以外の吸血鬼を全員殺してでも自分たちが人間の側にいることが彼らの人間性になってしまったんだ。救いがなさすぎる。人間にも吸血鬼にも入れずただ人間の味方であることを示し続けることでしか、自我を保てない。それも残酷な手段で。キツ。最後、暗闇に消えていく3人を震えながら見ていた。そのままフツーに明るく楽しくかっこいいレビューが始まってびっくりした。レビューはめっちゃ楽しかったけどラストの衝撃が凄すぎて固まっていた。