藍ルートに感じていた違和感の話
ASとASASの藍ルートをやっていて、なんか綺麗っぽい話だけどそうじゃなくね?となった話。
藍ルートは一言で言っちゃえばロボットが心を得て自我を得る感動物語なんですけど(雑)。そして私もめちゃくちゃプレイしてめちゃくちゃ泣きましたけど、あれこれ本当にそれだけかな??という話。ディスるつもりはないが、素直な感動を奪う文章ではあるので無理は方はここで回れ右してください。
1 前提として
まず美風藍は人間ではない。彼の所属事務所の社長が出資して作られたアンドロイドであり作中ではソングロボと呼ばれている。そして彼自身が自らの目指すアイドル像を「ボク自身がなりたいアイドル像っていうのはあまりない。ボクはみんなに求められるアイドルになりたいと思ってる。応援してくれるみんなが、美風藍というアイドルを作り上げるんだ。」[1]と説明している。
2美風藍は誰のことか
美風藍にはモデルが存在する。所属事務所の先輩にあたる如月愛音という将来を期待された若手アイドルだったが、プレッシャーで心身を病み10年以上前に失踪している。如月愛音の存在を惜しんだ人間が3人いる。1人目が事務所の社長であるシャイニング早乙女だ。彼は稀有な才能が失われたことを嘆き、莫大な費用を投じてロボットにアイドルを務めさせる実験を始めた。2人目が実験を依頼された博士という人物。実は如月の叔父にあたり、家族とうまくいっていなかった博士だが如月とは親交があった。美風のビジュアルと声に如月のものを使うことを決めたのも博士である。3人目が美風と同じグループに所属するアイドル寿嶺二だ。寿は如月と同級生であり、如月の失踪を止められなかったことを悔やんでいる。3人は、博士の美風に対して如月愛音を投影し、理想を投影している。如月は早乙女にとって望ましい才能を兼ね備えた理想のアイドルだった。博士にとっては愛する甥であり、寿にとっても如月は理想のアイドルでかけがえのない友人であった。それぞれの理想像を投影して生み出されたのが美風藍である。まあ詳しいことはゲームやれば分かるけど、例えば嶺二は藍に会った時「アイネ」と呼びかけて、しばらく納得しない。博士もソングロボ計画に乗ったのは愛音の影を追ってだろう。
ロボットである美風は歌やダンスの技術面では正確無比の高いクオリティを有しているが、感情を持たないことで生まれる軋轢や表現の乏しさの克服がゲームのシナリオの大筋となる。まずデビュー直前に彼は人間社会で生活するための教育を受ける。マナーやルールはもちろんだが、様々な文学や映像作品に触れ感想を述べる形での情操教育も施された。当然ロボットであるため、周りの人間が求めるような感想は出てこず美風は困惑し、それに対し人間たちは温かく見守る姿勢を見せていた。しかしストーリーの終盤、主人公春歌と藍自身が3人の支配を受けず活動を続けるために美風自身のシステムの一部を破壊する行動に出た時、周囲の反応は冷たい。明らかに彼らが求めていたような自我や欲求が表れているにも関わらず、彼らの理想を逸脱しようとする行動は彼らを困惑させた。
また反対に、彼は大きな自己犠牲によって主人公への愛を証明したが、自らを破壊するまでに至らなければ自分が人間と共に生きられることを証明できなかったといえる。事実、その後美風自身がアイドル活動を続けたい意志を知り、主人公への強い思いも理解した博士たちは独り立ちした美風藍を認めている。
この自己犠牲→承認のプロセスは明らかに、美風藍がアンドロイドだから求められていて、だからこそ逆に求められたものといいますか。アンドロイドなら、息切れすることも音を外すこともなく「完璧な」パフォーマンスを行うことができる。しかし周りの人間たちが求めたのは完璧さでなく、人間の持つような揺らぎやそれに依ったパフォーマンス性である。よって、完璧であるはずのアンドロイドは永遠に完璧なアイドルになることは本来ないはずだった。それが自己犠牲によって「人間らしさ」が発生し、彼は3人に認められるに至ったのである。ここには第一に、完全無欠なロボットに人間が勝てる部分が存在するという強い主張があると思う。3人は如月の代わりが欲しいと願いながらも代わりなどいないと考えていて、特に早乙女と寿はロボットにアイドルが務まるとは考えたくないのである。第二に、歩みよるのは人間でなくロボットの側であり、ロボットが完全性を失い、人間の目的に沿う形でしか存在し得ない。周りの人間たちの歪んだ支配欲を読み取ることができるんじゃないだろうか。美風藍は自立前も後も周りの人間の理想を体現する存在なのだ。そもそも美風が作られた理由は如月が周囲のプレッシャーによって失踪したことが原因であったが、周りの人間たちは同じようなことを繰り返している。この意味で本作はアイドルという周囲に見られながら表現をし続ける職業について、皮肉な視点を提示している。ここから脱け出すには、嶺二、博士、社長が藍と愛音は別の人間だと本当の意味で解る必要があるのではないかと思うけど、ASASでその兆しはあったので早くDolce Vita出してください。
3
「みんなに愛されるアイドル」の「みんな」とは誰なのだろう。もちろん、彼は彼のファンを想定して発言しているだろう。そして、周りの人間たちも含まれるだろう。美風藍を開発し、作ったのは周りの人間たちであり、現在のような完璧でないアイドル像へ導いたのも周りの人間たちである。だとするならば、美風のファンたちは彼の何を見てかわいいと発言しているのかというと、彼の周囲の人間が投影した像とファン自身が投影する美風藍像と言えるだろう。確かに公式プロフィール通り、「見た目は綺麗で可愛いが、言動はさっぱり可愛くない。」[4]のである。さらにうたプリが複雑なのは、アイドルたちが「実在」しているとオタクが信じていて、その裏話も表舞台も全ての「物語」をオタクたちが共有しているところだと思う。つまり、オタクたち、全部わかった上で「感動」している。これは輪をかけてグロテスクじゃないか。
一応もう一回弁解しておくけど、うたプリに恨みがあるとか社長が嫌いとか全然そんなことはないです。そうじゃなくて、AIと人間みたいな割と新し目な(新しくはないか?)設定で人間模様を描く乙女ゲーを作ってみたらめちゃ面白いけど、AIと人間の歩み寄りの限界も垣間見えますねと言いたい。逆にそこまで書いてるゲームライターさんはすごいと思う。あとASASで全身の兆しが見えるのもすごいと思うから早く先を見せてほしい。
Dolce Vita発売いつですか?
[1] 電撃Girl’sStyle編集部『うたの☆プリンスさまっ♪ 5th Anniversari Book』KADOKAWA、2016年、124p
[2] 「うたの☆プリンスさまっ♪ キャラクター」うたの☆プリンスさまっ♪公式ホームページ https://www.utapri.com/character.php (2022年11月13日閲覧)
[3] 菊地浩平『人形メディア学講義』河出書房新社、2018年、310-311p
[4] 「うたの☆プリンスさまっ♪ Debut キャラクター」うたの☆プリンスさまっ♪ Debut 公式サイトhttps://www.utapri.com/game/debut/character_ai.php (2022年11月13日閲覧)
『こころ』を久しぶりに読んだら面白くなかった
色々あって読み返したんだわ、夏目漱石の『こころ』。高校の時教科書に載ってる世代だったから一度読んでいる。その時は「私」かわいいな〜先生のこと大好きだな〜とか、先生の偏屈さがつらい…!とか、先生とK絶対付き合ってるだろとか言いながらけっこう楽しく読んだ記憶があるんだけど、読み返したら全然面白くなかった。マジで? まあ記憶が改竄されている可能性もなくはない。
正確に言うと、「私」が語り部の上と中は割と楽しく読めた。下がダメだった。実を言うと下の途中で脱落してしまったので厳密には読み返せていなかったりする。読んでねって言ってくれた人ごめん。でもだめだった。
「私」の語りには、まあ大体高校当時と同じような感想。こいつマジでめちゃくちゃかわいいな。受けにしてやろうかと腐女子筆者。なんかかわいいじゃん。人間が出来上がっていなくて。女と抱き合うための準備段階として先生のところへ行ったんだよお前はみたいな。すごい身の振り方暗中模索しててかわいいんだわ。卒論適当に仕上げててかわいいよ。先生のちょっとした言動にす〜ぐ振り回されてあれこれ考えててめちゃくちゃかわいいじゃん。しかもこれ「私」が思い返して書いてる体でしょ? 先生が亡くなってしばらくしてからも先生のことを考え続けてるってことじゃん? 今が昔ならオタク又の名を読者に「クソデカ感情」って言われるやつだよオタク知ってる。
でもな、下でな、先生のクソデカ自意識の語り聞かされるの、筆者しんどかった。無理だった。こいつ何なの? が先行しすぎて感情移入もクソもなかった。クソ。いや、Kも、Kもよ。巨大自意識の自意識バトル、仮想敵との虚無へ向かってのバトルとでも言おうか、読んでてマジでしんどかった。お前たちの話は聞いてないんだよ。いやそれ言っちゃおしまいなんだけど。先生は明治の時代と心中し、Kと時間差心中し、この巨大自意識と心中することで一つの時代とともに終わっていったんだわ、って思うことにした。永遠に終わっててくれ……!
ここまでだとただの罵詈雑言なので多少まともに自分の感想を考えると、クソデカの功罪なのかなと思った。「私」のクソデカは若さ未熟さで許せるのと、先生が巧妙に一線を引き続け(まだいけるかもと思わせる引き方なのが非常に悪質なんだけれども)依存まではいってなかったり、2人の年齢差もあるから2人が共有しているものは少なかったりして、たぶんこれ以上何も起こらない2人だと思うんだな。「私」はほぼ確実に別の人間のところに行くと思う。
でも先生とKのいきさつなんか読むと、お互いに与え奪いしてきて、壮絶なマウントの取り合いが存在していて、でもなんか2人ともそれを自覚していないっぽく先生が懐古している感じがするじゃん? お互いの急所を完全に分かっててお互いに駆け引きに近いことをほぼ無自覚にしている(ように先生が遺書を書いている)。それによって失われたものがさあ、細君の人生だったり、それぞれの縁故ある人たちだったり、もちろん本人たちの人生だってぐっちゃぐちゃになっているわけじゃん。これをさ、お互いの想いが地獄化してしまった結果2人のワンダーランドを作らざるを得ないメリバと考えてホイホイするのも別に全然解釈の自由だと思うし、自分も初めて読んだ時は割とそう思ったけど、なんか読み返して観たらそんな周りの人間も何もかも全てを壊してできたワンダーランド、私はおいしくいただくことはできないなと思ったのだった。誰も悪くないっていうか完全に2人が悪いじゃん? っていうか2人のこの迷惑すぎる自意識を生んでしまった周りの人間や時代が悪いのでしょうか。まあ善悪の問題じゃあないけどね。以上。
同じ作者でも幻影の盾やら薤露行やら琴のそら音やらファンタジー色強めなものはけっこう面白かったんですが……。
ミュージカル『魍魎の匣』 感想 アダプテーションは難しくて、楽しくて、危険で、美しい
オルタナティブシアターでやっていたミュージカル『魍魎の匣』、観に行って参りましたよ~。
原作の存在は知っていましたが、やはりあの厚さに躊躇して読んでいなかったのでこの際だからと原作、マンガ、アニメ、舞台映像に触れてから行きました。(映画版はなかったものとします……)どれも面白かったですし、原作の面白さに圧倒。あの簡潔でどんどん読める文体、興味深い蘊蓄、そして衝撃の結末。あ、あと『姑獲鳥の夏』も読みました。
文庫で1000pもあると、どの媒体もどうやって尺にみっしりと納めるかがまず問題になるのかな、と色々見て思ったんですが、この作品の面白さって、もちろん話自体の面白さもあるけれど、それよりも「現代」に至る少しだけ前の時代の空気感だったり、登場人物のキャラクター性だったり、一番は京極堂のあの語りにのせられていく楽しさだったりするんじゃないか、とにわかなりに思いました。事前に色々言われていたけど、その点でミュージカルってものすごく合っている形式なのではないかと。
中の人と演出家繋がりで、例えば『フランケンシュタイン』や『シャーロックホームズ』、『ブラックメリーポピンズ』は音楽の力で時間を圧縮したり飛躍させたりしていて、作・演出の板垣恭一さんもおっしゃっていたけどミュージカルとミステリーはものすごく相性がいいのだなと改めて。あと京極堂の「語り」にのせられる楽しみが音楽を聴いてのせられていく楽しさといい感じに融合していたのでは。私はこれをハイスピードジェットコースターミュージカルと名付けることとした(命名)。
それに、お祓い、憑き物落としの儀式と演劇の相性の良さを感じました。術者が(色々言い方はあるけどまとめて「術者」とします)扮装をして立ち回るやつ、もともとコミュニティの維持発展のために行われていた行為が演劇に進化していったわけじゃないですか。そりゃあ相性いいはずでしょう。シリーズの他の作品も演劇にできるのではないですか。板垣さんいかがですか。私は姑獲鳥が観たいです。姉妹のトリックとかも演劇的な嘘がつきやすいと思うんですが。いかがですか。
そのほか演出面でいうと、二階建てのシンプルな空間に衝立や箱で諸々表現するやつ、フランケンで観たやつだし、事件も抽象的に表現してトップスピードで展開していく感じが脳が大変混乱してとても楽しかったです。かといって分かりづらいようなこともなく、時系列や重要な単語は映像で出るから分かりやすくなっているし、コロスの歌と言葉が何重にも重なっていくので複雑なものが複雑なまま襲ってくるというか。原作も中盤くらいまで???の連続で、だんだんとアハ体験していく感じがあって、板垣恭一さん天才か???姑獲鳥もやりません???
大きな変更点で言うと、鳥口、増岡、里村が女性に変更されていたことかな。これはイッツフォーリーズに女性が多いという劇団公演ならではの事情もあったのかもしれないけれど、結果としてものすごくよかったのではと思った。理由は2つあって、まず性別とは何か、そしてプロフェッショナルとは何かが問われたということ。この3役はそれぞれ雑誌編集者、弁護士、医者という全く違う職業を持つ女性たちで、実際昭和の時代に女性編集者はいたらしいけど、弁護士と医者はいたのか、みたいな突っ込みも不可能ではないんですが、それでも役の果たす役割って全然原作と変わってなかったんですよ。里村なんて予告なくあまりにもナチュラルに出てきたので最初性別変更に気がつかなかったくらいだし(鈍感)。我々はすぐに、裏にどんな意図があるにしろないにしろ、性別に意味を求めてしまいがちではないですか。女性は気がつかえるとか、男性だから仕事ができるできないだとか。今回の性別変更に何か意味を期待していた人も多いと思うし、私もそうだし、逆に変な美人属性加わったりしてキャラ変わったらどうしようと考えていた人もいるのではないですか。でも性別変わったくらいで役割は別に変らなかった。そういうものは本当はまやかしなのではないかと。その上で、女性の職業人がまだ少なかった昭和の時代において、加えてこれが上演された現代でもまだ女性の社会進出について色々言われる中で、女性達が爽やかに生きている様子に私は勇気づけられました。
あと言いたいのが、鳥口と増岡が男性のままだったら憑き物落としの場面で陽子が女性一人になってしまったので、狂った女にドン引きする男性たちにもなりかねなかったわけで、バランスが悪かっただろうなと。憑き物落としの場面での増岡と鳥口の演技が細かくて。増岡は原作でもただ職務に忠実な不器用な、かなり普通の、実は優しい人という印象があるのですが、今回神野さんが演じられた増岡もまさにそんな人に見えた。ずっと陽子の言動が分からない、という顔をしているのだけど、美馬坂との過去の話を聞いてはっとした顔になるんです。分かってしまったんだね陽子の気持ちが、たぶん。一方で鳥口はもうずっとドン引きなの、ドン引き。しっかり一線を引いている。だから彼女は編集者を続けていられるのだろうし、増岡は弁護士で、陽子の弁護を引き受けるのだと思う。
全体的な細かい所で言うと、たまにすげー急に歌うじゃんとか、美馬坂のテンション思ったより高いな、とか、この2.5次元感なんだろうな、とか、まあなくはないんですが、歌に関してはああここで時間飛躍するから歌に入って置きたかったんだな、これだけ展開早いとどのキャラも若干テンション高くないとついていけないんだろうな、2.5感は照明とキャラクターの立て方かな、とか納得はするのでまあそこまで気にするところではないかな。2.5に関しては元々こっちのオタクなのでノリやすかったです私は。ノれない人もいたみたいだけど。あとさっきも書いたけどキャラクター性が立ちまくっている作品なので合ってた。ビジュアルもアニメとマンガから少しずつ拝借している感じでおいしかったし、細かい言動も原作の京極堂は意外とちょけるのでその辺もうっすら見えて楽しかった。何より小西さん演じる京極堂の美しすぎる立ち姿でもう元は取れて頼子と加菜子のハーモニーが聴けた時点で儲けが出てるので些細な話なんですけど。こに極堂が出てきて第一声「関口くん、」があまりにも京極堂すぎてびっくりした。
舞台版もすごく良かったから、今更もう一回演劇にする必要あるのか、と少し思いもしたんですけど、ありましたね。冒頭にあげたようなミュージカルならではのよさもたくさんあるんだけど、何より解釈が違ったので。
舞台版は『魍魎の匣』という小説でできた小説の再現と、あと箱を使った演出が特徴だった。原作を読んでいても、事件は家や電車や研究所や、匣の中で起こっていって、登場人物もみんな匣なんですよね、その入り組んだ繋がりを具体化してみましたよ、な演出だと私は思ったんですけど。結果的にかなりおどろおどろしく、彼岸へ行ってしまうことの不気味さや恐ろしさが強かったかな。
今回のミュージカル版は、スピード感ある読書体験の再現に重点が置かれた演出。そしてこれがなんだったのか現地と配信合わせて10回以上観た今でもなんだか正直よくわかっていない。なんだったんだ。これが魍魎ということか……! 怖かった気もするし、取るに足りない話だった気もするし、なんだかめちゃくちゃ美しくて羨ましかったような気がする。
板垣演出作品の特徴だと思うんだけど、役の大小関わらず芝居が細かくて濃い、フランケンもオクトーバースカイもそうだった、究極の全員野球。舞台上で、「いま」「そこで」人間が行なうことを重視している感じがするから、たぶん簡単に解釈みたいなこと言うのが難しい。その方向性と大勢の登場人物の意図が絡みこじれしていく脚本がかけ算起こしてとんでもないことになった。繰り返すようだけど、話は分かるのよ。あと原作ファンの人に怒られそうだけどオチ自体はえっそういう!?みたいなところじゃないですか。でもなんか情念に殴られた。なんだろうあれ。たぶん魍魎。こわ。
一個脚本中での大きい変更、というか解釈を挙げるとするなら、頼子と加菜子の歌に始まって歌に終わる円環構造と、それに伴ってラストシーンが「月明かりの下でなら運命から逃れられる」陽子になっていることだと思うんだけど。これやばくない? まず運命から逃れようとした少女たちの物語であること、月明かりのもとでならそれが叶うこと、死のもとでなら運命から逃れられる、そして頼子と加菜子は運命から逃れられたってコト?!えっっっということは匣の中の娘たち、全肯定……?!久保の原作の独白……?!彼女たちにはこれがわかっていたのだ(だから死んだのだ)……ってコト?!趣旨は原作通りのような気もするけどなんか、ものすごい憧れを感じる美しい終わりかた。あとここ、かとしょさんの久保、それに美馬坂もものすごく満足気な幸せそうな顔をしている。
そしてラストシーンの京極堂の座敷で、各々日常を取り戻してく大切さや得難さも感じる場面だけど、雨宮のことを聞いて羨ましくなってしまう関口。雨宮の様子を歌うコーラスからそのまま発展して幕、なんだけど。待って。彼岸の歌で幕なの。彼岸に行きたくなってしまっただろう。ここをおどろおどろしくやると彼岸へ行こうとすることの警告みたいな終わり方になるのかなと思うんだけど、ミュージカル、そうじゃなかった。彼岸が美しいままなんだ。待ってくれ。私も連れて行ってくれ。
そもそも彼岸てなに?みたいなところは原作ファンの方々が私などよりもよほど丁寧にしっかり説明してくださると思うのでさらっと流すとして、日常の遠くにあるようですぐ近くにあり、一足飛びにいってしまうものもいれば、存在を知っていても行けない人間もいるのではと思うんだよね。京極堂と、陽子も。彼岸と此岸のどっちもを肯定、いやむしろ彼岸に気持ち傾いて終わったな? みたいな。脚本書いたの関口くんだった? みたいな。一見爽やかエンディングなんだけど、よく考えると怖い。いや美しいだけに余計に怖い、彼岸にいってしまいたくなる終わり方なだけに。原作読んでもステでもこんな気持ちにはならなかったのだけど。そちらは関口が語り手だったから。
ちょっと崖の下のぞかされたみたいな気持ちになる終わり方だった。俯瞰じゃなく。こういうのがあるからアダプテーション、好きなんですよね。原作の続きも読もうと思います。あと今回の円盤とCDとオフショットとミュージカルシリーズ化待ってます。
バラ♪バラ♪バラバラ事件♪
『スリル・ミー』初心者の戯言
前おき
2020年に色々あって小西遼生さんにハマった。
好き。
過去作を追う内にこんなものを見つけた。
バナナ????何か全然わからないけどやばそうなことは分かった。
テレビでちらっと歌っていた松下洸平さんの声がとてもきれいで、声の相性の良さというのは大層気になる。買った。
で、
4月7日18時公演 松岡広大×山崎大樹ペア(以下松山ペア)
4月9日13時公演 田代万里生×新納慎也ペア(にろまり)
4月9日18時公演 成河×福士誠治ペア(成福)
行った。
『スリル・ミー』というお話
色々通り越して10周くらいしてすげーよくできた戯曲だなと思った。
物語の軸としてはざっくり二つあるんじゃなかろうか。一つ目は二人の内面。二つ目は社会。広義での文脈と言った方が良いかな。このふたつがものすごい絡み方をしているなと。
まず、この作品の元になった「レオポルドとローブ事件」。裕福なユダヤ人家庭に育った青年二人が14歳の子供を「スリルのため」「自分が『超人』だと証明するため」に殺してしまった、という卑劣極まりない事件で、wikiの参考文献をお散歩する限りアメリカではとても有名な事件らしい。恥ずかしながら知らなかった。二人は死刑は免れないだろう、と思われていたけれど、死刑反対論者のクラレンス・ダロウの熱い弁護によって99年の懲役刑と終身刑に処され、ローブは刑務所で他の囚人に刺され死亡、レオポルドはのちに釈放、病死。当時の新聞やダロウの回想録*1を読むと当時の人々の「正しい」怒りが伝わってきて面白い。面白がっている場合ではないな。興味深い。ローブの幼少期のエピソードや*2、精神鑑定で二人の人格の歪みを説明しようとしていたり。これ、いまの日本で凶悪犯罪が起きた時の反応とそんなに変わっていないんじゃないか? 弁護士のダロウも二人の弁護に精神鑑定を大いに用いていて、二人は「異常な」状態にあったからそんな凶行に走っても仕方なかったんだ、むしろ哀れむべきだとでもいうよう。
でも、そうやって切り捨ててしまっていいんだろうか。
二人はとても裕福な家庭に育ち、頭もとても良かったそう。ありていに言えば上の人間。他の人の上に立っていることが普通な人間たちだった。二人はそれを当たり前だと思っていて、他のもの、弱いものを踏みつけることに躊躇がない。それは子供を殺すということに繋がっていくし、「彼」を手に入れるため行動した「私」の行動の根底にあるのも同じ暴力性なんじゃないかと思う。
そういう彼らを異常なものとして哀れみ、怒り、外側においてしまうこと。それもまた二人が持っていたのと同じ種類の暴力性だと思えてならない。そもそも二人が当たり前に持っていた裕福・貧困、天才・凡人、弱者・強者の格差観はもともと社会のものだから。
そんな彼らが信奉していたニーチェ思想がどんなものか、高校の頃を思い出す……ああ、倫理のテストで◯点を取った時……くらいのレベルだったのでなんか参考になりそうなやつ探して
入門という単語で見つけて読んだけどマジで分かった気がしない。有識者の見解求む。二人とも本当に頭が良かったんだなあ(いいのかそれで)。これ多分すごい分かりやすく説明しようとものすごい頑張ってくださっているのは伝わってくるんだけど、ごめん凡人無理だった。
愚痴が長くなったのでスリミに直接関わりがあってかつ分かった範囲でまとめると、資本主義の矛盾を解決するためにマルクス主義とニーチェ思想が生まれたよ、でもニーチェは言葉が過激すぎて優生思想や特権主義と結びつけられちゃったよ、ニーチェが言いたかったのは低い平均値に甘んじるより人類の上昇を志向することができる個人(=超人)の創造を目指すことだよ、という感じ。別に凡人はカスだとかそういうことじゃない。認識論の話は面倒なのでまた今度。(日本人のいう今度は永遠に来ない)
ただ、彼らが生きていた1900年代前半ではまだそういう読みはされていなくて、危険思想っぽかった。二人は飛び級するほどの天才だったそうだから、ニーチェの崇高な理想の香りに酔いしれたのかもしれないし、ただ特権を与えてくれる読み方に流されていた普通の脆い人間なのかもしれない。いまとなってはどっちかはもうわからない。(蛇足:あとニーチェは反ユダヤ主義者ではないんだけど、ユダヤ教起源批判、痛烈なキリスト教批判があるのでユダヤ人である彼らがどう読んだのか気になるところではある。が、二人とも熱心なユダヤ教信者ではなかったっぽい。それに米社会のユダヤ人差別がどう影響していたのかは気になるなあ。自分が持つ被差別アイデンティティであるユダヤ教から発展したキリスト教を批判しているから、ニーチェが魅力的に映ったのかな、と思ったり。民衆も二人がユダヤ人だったから過激な反応になったのでは? なんて。二人の行動は許されることじゃないけど。)
この社会と二人の接するところに色々な「力」が働いていて、そこで『スリル・ミー』は犯罪の動機を二人の関係性ゆえだった、として二人の内面に強烈な力関係を与えている。それは主ー従であったり、愛憎、依存、惚れている/いないであったり、「言葉にするのは難しい」のだが、二人の駆け引きで力関係が終始拮抗し、逆転し、物語が動いていく。二人が内面化した力と二人の間にある力、二人の周りにある力がリンクしている。
これも蛇足。スリミを元気に観に行ったということはご多分に漏れずしっかり腐の身分でありまして、マンガやらアニメやらなにやら摂取する中でふと疑問に思ったのが男同士のクソデカはいっぱいあるけど女同士のクソデカってあんまりないな、と。あっても理由が必要だったり何かに阻まれたりしてない? なんで? という答えの一つがスリミなのかなあ。女同士だとこういう強烈な力がなんでかわからないけど最初から付与されていない、ような気がする。
最後にマジでやばいなと思ったのが、入れ子構造。入れ子構造の戯曲自体は時間の行き来をまとめるのによく使われるし別に珍しくもなんともないんだが*3『スリル・ミー』に関しては「私」が語り手であることで時間の整理や、「彼」自身と「私」が思う「彼」の二重のイメージができることだけじゃなく、ここまで3000字近く使って書いたことが全部ぶっ壊れる可能性が生まれていることがやばいと思う。サイコか? 狐につままれたとはこのことよ。おれたちは「私」、いやステファン・ドルギノフという「超人」の手のひらの上で転がっていただけなのか……!
どこでどうやるか
まあそんなことを言いつつも、これだけ大きな背景を抱えている作品が上演される時代・場所は中身(の受け取られ方)に大きく作用する、当然ながら。オフ・ブロードウェイでは実際の犯人の名前で上演されたそうだけど*4、日本版は普遍的な物語にするために固有名詞を徹底的に省いたと演出家の栗山民也談*5。なるほど確かにそうだろう。先に書いたような格差・暴力は日本でもいえることだし、二人の愛憎模様や脆い人間の在り方だって通用するはずだ。こんな酷い話でも二人だけの世界は時々どうしようもなく美しくも見える。「究極の愛の物語」だと思う*6。
オフブロや海外の上演では笑いが起こる場面もあるらしい。それは演出の方向性はあるとしても、観客が事件のことを知っていて心の底から嫌悪して断罪する気持ちで観ているからなのではと思う。現場を見てないから想像で言ってる。それはそれでさっきも書いたような暴力性を含んでいて危険な見方ではあると思う。現場を見てないから想像で言ってる(大事)(観たい)。ただ、2021年の日本の観客には事象の前後、中身、記憶の共有がすっぽりないんですよね。だから事件の中身がオフブロの観客とは違う伝わり方をすると思う。そこで成立させるための普遍化、という面はあるのだろうけれど、そこで各ペアがどうだったのか。結論から言うとどれもめっちゃ良かった。個人的にハマったのは松山ペアでした。さっき言った内面と社会の二つの軸のバランスが各ペアで全然違ってびっくりした。だから生の舞台を観に行ってしまうんだよね〜! それぞれの感想は気が向いたら追加するかも……。
印象に残ったのがそれぞれの「私」の照明の使い方。客席から現れて舞台にあがり、振り向く。田代私と松岡私は振り向いた瞬間に顔に照明が当たって顔が見えるんだけど、成河私だけはそこからさらに進んで「何が知りたい?」で顔を上げて、そこでやっと表情が見える。しかもにやりと笑っている。それぞれの「私」の全く異なる在り方が表れていて好きでした。他の場面でも照明の働きが大きくて、「彼」に詰め寄られている時に「私」に当たる光が「私」の思考のめぐりを想像させたり、「私」が話している時にカット割りのような効果を感じさせたり、「語る」照明だった。特徴的な振り付け(?)と抽象的なセットも二人の関係性を視覚化していて面白いなあとか。「契約書」の場面、白線で囲われた正方形の舞台がまるで紙の上のように見えたんだけど、みんなはどう?(突然の質問)
あとやっぱり音楽のことは抜けるわけがない。200席と少ししかないほぼ黒一色の空間にピアノの音が充満している。窒素、二酸化炭素、ピアノって感じ。伝わらない。100分のあいだ酸素の代わりにピアノを吸わされていたら息も詰まる。二人の声とピアノの音(と時々効果音)くらいしか聞こえなくて、視覚的にも聴覚的にもシンプルな空間だから生まれる緊張感と密度があると思った。一曲一曲は曲というより話しているように聴こえた。情報を圧縮して伝えられて飛躍が得意なミュージカル表現の良さ・便利さもありながら、一音一音、一言一言踏みしめるよう。でも同時にメロディが高揚感、疾走感をのせて、色々な感覚が聴き手を包んできて息ができなくなる。窒素、二酸化炭素、ピアノ。その中で「やさしい炎」のメロディアスさが際立つ。恐ろしくて美しくて、ペアにもよるけどロマンチックな場面。「私」と「彼」の愛や鬱屈した気持ちを感じてしまう。欠けている部分を思い、埋めようとしている部分を思いながら観ていると、いつのまにか炎を見つめ安堵している。何か、ああ、この思い出から始まってゆくのだなと。
もう二度と起きてほしくない事件の話ではあるけど今も起こり続けていることの話であると考えているので、犯人たちへの不快感、嫌悪感と同時に、そういう自分も持ってしまっている要素が頭でなく感覚で伝わってくるという共感の快楽と気持ち悪さを感じた。深淵を積極的に覗いていくホリプロの作品選び、大好きだよ。
まつこに復活しないかな……いれこに又はかきこに結成も観てみたい
*1:クラレンス・ダロウ(柴嵜雅子訳)「わが生涯の物語」『大阪国際大学国際研究論叢 22巻3号』、p141-151 名前でググるとすぐ出てくる
*2:https://web.archive.org/web/20130606075335/http://www.leopoldandloeb.com/leopold.htm ,英弱だから読解間違ってたら恥ずかしい。ご指摘ください。
*3:『エリザベート』、『ポーの一族』、『ミュージカル フランケンシュタイン』、『ブラック メリーポピンズ』、『ミュージカル 生きる』、『ミュージカル GOYA』、『子午線の祀り』、『夏の夜の夢』、などなど偏らせて挙げたけどまだまだ他にもある
*4:
The Sweet Seduction of Murder - The New York Times
英語圏上演の記事で読めた中ではこれが一番好きだった。「やさしい炎」がめっちゃいいとか、説教くさくないとか、わかる~って感じ。
*5:2021年公演パンフレットより。もともと韓国版から省かれているらしいが。
*6:https://horipro-stage.jp/stage/thrillme2021/ まりおさんのコメントより
森の奥に向かったつもりが血染めの世界だった 2代目『BLOODY SHADOWS』東京公演感想
薄々分かってはいたけどこんなにこんなだとは聞いてないよ!!!
ですがまず、今回の公演開催を決定し、対策を固めこれまで運営を進めてくださっているスタッフの方々、そして毎度のことながら大変な重圧と物量の中出演してくださったキャストの方々に感謝申し上げたいです。このような状況の中公演を行うという判断は難しいことが多々あったかと思います。「いま」「ここで」「これを」観られたことの奇跡を噛み締めております。これから先の公演も無事に終えられますように、ただの一ファンではありますが祈っております。
注意書き
筆者は
2代目劇団シャイニング全肯定
若手俳優さんについてはあまり知識がない
人より少し舞台が好きだけどずぶの素人
ゲーム本編プレイ済みのうたプリファン
美風担
です。以上をご理解いただいた上、読み進めてください。また、筆者が参加した11月6日昼公演の内容・状況に基づいた感想や考察がありますが、正確な情報である保証は全くできません。
以下大いにネタバレを含みます。
とんでもないものを観た。ありきたりな言葉かもしれないが。
吸血鬼を題材にした美しい世界観のダークファンタジーだと各所で宣伝されていたし、シアターシャイニング『BLOODY SHADOWS』(初代と呼ぶことにします)は「薔薇」「月」が印象的な作品で、今回もカンストした美と悲哀が観られることを何となく思い描いて劇場に向かいましたが、まさか
人間性に挑戦してくるとは思わなかった
まあよくよく考えれば原作うたプリもアイドルたちがなかなか理不尽な目にあったり四苦八苦したり、足掻いたり、その他シリーズでもうたプリはそれなりに重いテーマをいままで扱ってきていましたね。これもまたうたプリ。
えっでもここまですると思わないじゃん………観劇後に目の前に伸びるのはひたすら地獄へと続く長い長い道のりなんですけど………?
劇場に入った途端森へと誘われる。薄暗い照明、豪華なセットで表現された森林、階段、浮かび上がる"BLOODY SHADOWS"の文字、バロック調の音楽。これが吸血鬼たちのいる森……!
開演前アナウンスでびっくり!アイレスの声と話し方がめちゃくちゃ初代に寄せられている!すげぇ!普通に感動し慄いていると音楽のボリュームが下がって客電が落ちて幕が上がる!
始まったのは初代のラストシーンだった。繰り返し聴いて夢にまで観たあの場面が。そして開幕数分も経たず衝撃の事実が発覚した。マサフェリーをバンパイアにしたのはウォーレンだった。何となくアイレスがマサフェリーを噛んだのかと思っていたが違った。事実は想像を超えてきた。そして今回も結婚式のようなセリフ、演出だった。立ち位置から考えてもアイレスとウォーレンは司祭、マサフェリーの相手は何なのか、ウォーレンはマサフェリーを噛むから司祭とも取れるし、あるいは。初代でマサフェリーは、婚約者の身代わりになるため仲間になることを提案し、いやむしろ主張しアイレスに聞き入れられた。でもウォーレンはそもそも自分で婚約者を逃したくて、それは無理だと諦めマサフェリーに託そうとし、そのマサフェリーが自分の行く末も知らずバンパイアになるなどと言い出した。(どうでもいいが個人的に、レンくんが結末に納得していないと言っているのは自分ならなりふり構わず婚約者ちゃんを連れて逃げるのにということだ思っている。)これがじっとしていられるわけがないじゃん……。それでも彼は2人に押されてしまったわけで(たぶんレンくんはそこが納得いかなくて)。ウォーレンがマサフェリーの血を飲むのは、せめて自分の手で的な悲しい愛情も感じるけれど、吸血行為自体がそもそもエロティックだけど…そういうBL的な騒ぎ方だけじゃなく、ウォーレンが引きずるものの大きさに目がいって。人ならざるものが長い間でおそらく唯一心を許せた人間の魂を自分の手で引きずりこまなければならない。ホメロスとアイレスの関係は気に入った「から」仲間に引き入れよう!だったのに対してウォーレンは「けれど」「そうせねばならない」部分があるのが辛い。だけど「だから」の部分もある。彼は「人間とバンパイアが分かり合える道があると思うのなら自分で確かめてみろよ」というような若干投げやりな怒りも持っていそうで、三角関係に気がつかない鈍感さやバンパイアの未来を信じられる「幸せな」マサフェリーを誰よりも憎んで恨んでいて、でもそんな不器用で純粋な男だから付き合えたし、でもその男を汚すのは自分なんでしょ……。そりゃあマサフェリーに過保護気味にもなる、アイレスも嫉妬をする。人ならざるものだったとしても、こういうウォーレンの器用そうで不器用なところは人間だなぁと思うだけに、人間だった頃の回想がとても辛かった。そして今回ウォーレンを演じてらっしゃる高本さんがキュートな方なので余計辛い。頭痛がする辛さ。少年時代のお芝居がピュアでかわいくてかわいそうで、それをアイレスに語るバンパイアのウォーレンはかわいそうで、かわいいはかわいそう……。
もう途中の転換は色々アレなので勢いよく飛ばして結末に行く。真実を知った彼らが求めた人間性は、人間と吸血鬼が共存できる世界という当初の目的でも、人間に戻る術を探すということでもなかった。彼らはたとえ自分たち以外の吸血鬼を全員殺してでも自分たちが人間の側にいることが彼らの人間性になってしまったんだ。救いがなさすぎる。人間にも吸血鬼にも入れずただ人間の味方であることを示し続けることでしか、自我を保てない。それも残酷な手段で。キツ。最後、暗闇に消えていく3人を震えながら見ていた。そのままフツーに明るく楽しくかっこいいレビューが始まってびっくりした。レビューはめっちゃ楽しかったけどラストの衝撃が凄すぎて固まっていた。
ミュージカル薄桜鬼土方篇 「冷厳な瞳」の美しさ
タイトル通り。
私はこれで盆の味を覚えた。
この曲が流れ、盆が回り続ける場面の美しさは半端じゃない。歌も、芝居も、装置も、効果も。
薄ミュは一曲で一場面作るよりも場面と場面の間を曲で繋ぐことがけっこうあるんじゃないかと思うけど(他のミュージカルと比較したわけではないです。主観。)ここの転換の美しさはもうものすごい。オープニングは「道標」、すぐに「ヤイサ」で畳み掛け、この「冷厳な瞳」でストーリーが動き出して本当の意味で土方篇が始まるんだと思う。
歌詞の内容は原作だと千鶴のモノローグで、土方歳三のこれまた美しいスチルが映る場面。土方歳三の気迫を千鶴が感じとり圧倒され動けなくなる場面。無粋な言い方をすれば一目惚れする場面なんですよ。原作をやった人なら印象に残っている場面ではなかろうか。
その千鶴が感じたことを土方が歌ってしまうというミュージカル表現。素晴らしすぎる。土方という男がどんな男なのか。ゲーム媒体ならヒロインのフィルターを通すのがいいだろう。でもミュージカルなら、土方自身が歌で表現できてしまう。圧倒される。おれたちが千鶴(ある意味それはそう)。
月のように光る照明!!薄暗い淡く紫がかった空気!
そして回る盆!!!!!!千鶴を囲む土方沖田斎藤!!!
盆が回ってる最中は左右手前奥が入れ替わって分からなくなるじゃないですか、そこを千鶴がふらふらと、逃げようと、右往左往する、するんだけど沖田斎藤が行手を阻むから逃げられない。迷い込んでいく。これがここからの千鶴の運命を暗示しているように思えて。沖田斎藤は実はそこまで動いていなくて、千鶴が動いてるから2人にぶつかってしまうんだよね。このドツボに嵌っていく感じ。でも最後は(追い立てられてるけど)自分の足で屯所に入る。うーんこの。ただの場面転換では終わらせない。すごい。
千鶴に刀を突きつける土方。でも本当に彼が「問いかけ」ているのは自分に対して。ラストで千鶴が言うには「桜は、土方さんに似ています。」と。もう歌詞を見てもらうしかないんだけど、土方自身が、桜と自分の境遇を重ねて歌い上げ、舞台上では千鶴を尋問しているように見えても、実は自分に、自分が今やっていることは、やるべきことは何か、と問い質してる。この厳しさ。ストイックさ。彼は不穏因子を前にめちゃくちゃ冷静で頑としている。純粋にかっこいい。
千鶴と土方の関係を考えていると本当に楽しい。最初、千鶴は土方のことを恐い人だと思ってもいて、それは少女マンガにありがちな第一印象は最悪!(顔をしかめる)みたいなベタ要素も踏まえているのが乙女ゲームとして上手いと思う。切っ先突きつけて引き回すような男だもんな。でも千鶴は土方の厳しすぎる美しさを感じているし、ただでいる女ではなく振り切って逃げようとする女なので。土方の理想を支えているがそこにはちゃんと我がある。ちなみに私は土方√の江戸女な千鶴が1番好きです。
全部盆に載せて回すことで土方歳三の人格、美しさ、運命、が『薄桜鬼』でとても大切な桜と月に象徴されて昇華されていると思います。色々なことが起きている場面。ため息が出るほど美しい。
舞台だとどうしても遠目で見ることになるのに、スチルのアップの土方の「瞳」を歌と仕草で表現したのがすごいなと何回観ても思う。矢崎広さんはマジで歌が上手い。凄すぎる。黒髪と隊服姿が美しい。矢崎さんの2次元を3次元にする力は凄かった。大好きな役者さん。早く生の舞台で観たい。
我々は船員となり、海となり、そして松明となった 2代目Pirates of the Frontier 東京公演感想
ヨーホー!
正確には松明になったんじゃなくて松明(ペンライト)を振ってただけなんだけど。
CAUTION!
筆者は
2代目劇団シャイニング全肯定
若手俳優さんについては全く知識がない
人より少し舞台が好きだけどずぶの素人
ゲーム本編プレイ済みのうたプリファン
です。以上をご理解いただいた上、読み進めてください。また、筆者が参加した16日夜公演と21日昼公演の内容・状況に基づいた感想や考察がありますが、正確な情報である保証は全くできません。
物販や入場については公式サイトで最新情報を確認してください。
以下、シアターシャイニング『PIrates of the Frontier』
劇団シャイニング from うたの☆プリンスさまっ♪『Pirates of the Frontier』とパンフレットのネタバレがあります。
めっちゃよかったです……
良くも悪くも、いや、悪いところもよかった。最高の二代目パイフロ。初代を踏まえて作ってくださっていることが伝わってきましたが、踏襲にとどまらずにオリキャラも含めてしっかりと2代目のカラーを押し出しているところが最高、脚本も演出もキャストの方々も。うたプリとは別物なんですけど、ちゃんと from うたの☆プリンスさまっ♪ で、うたプリファンが普段応援しているアイドル達が出演しているわけではないんだけど、うたプリワールドの中に存在している、みたいな。うまく言えない。とにかくよかった。
2回見に行ったので、キャストさんやスタッフさんの成長を感じられたのもよかったです。公演が終盤になればなるほど、演出効果とお芝居がかっちりはまっていて見ごたえがあったし、なによりキャストさんのお芝居や立ち回りが洗練されていくんですよね……成長速度早すぎでびっくりしたよ……すごすぎる。
入場した瞬間からもうそこは海!波の音が聞こえてきます。後方座席は特に臨場感がありました。いまから航海にでるんだよ!開演5分前くらいに海賊さん(アンサンブルさん)が挨拶に来てくれます。みんなで「ヨーホー!」「アイサー!キャプテン!」の練習をします。めっちゃ楽しいです。気のいい海賊さんたちなので手をふると応えてくれたり、喋ってくれたり、目を合わせてくれます。とにかく近い。とある回ではラム酒の作り方を解説してくれました。ひとつ賢くなれる。
いよいよ舞台が始まり……オープニングがあるのですが、これがすっごくいいんですよ。客席の上を波が通過し、アクションはすごいし映像もあるしキャラクター紹介もある。目が足りない。キャラ同士の関係性を出すために絡みのあるキャラ同士が、こう、動きます。たとえば白い悪魔にスミスが付き従ってたり、イッキとマルローが共闘したり。目が足りない。マルローが短剣を高く投げてキャッチしたり、失敗してイッキに拾ってもらったりする。かわいい。
ここからはキャラクター別に書いていきます。
イッキ
圧倒的主人公。2代目イッキ役小澤廉さんは俳優好きの友人曰くとても人気な俳優さんだそうで……というか小澤さんに限らずキャストさん全員すごい方なんですね…出演してくださってありがとうございます。まず、これはすべてのキャラクターに言えることですが、ビジュアルが素晴らしかったです。公式サイトに上がっているお写真ももちろん素敵なのですが、舞台上で動いていると、あの真っ赤なコートが翻って本当にかっこいい。アクションシーンで振り向いたり跳んだりするたびにライトに映えて超カッコイイです。革靴を履いていらっしゃるので、歩くとまあまあ音がしたりするのがやばかった……。イッキが目の前で生きていました。イッキは太陽のように明るい仲間思いの魅力的な少年ですが、母を亡くし、自分を責め続けている人物でもあります。普段の振る舞いからはイッキの経験している苦しみは全く分からないですが、白い悪魔や父親と思われる人物と出会ったことで少しずつ流れ出していきます。キャプテンレッドに向かって母親が亡くなった時のことを語るシーンの演技、すごかったです。胸に迫ってくるよう。仲間を取るか、父親を取るかのシーンでの独白は圧巻。父親が見つかったと無理やり信じ込もうとするかなりネガティブな決意が、客席後方にいても目の前に見えるようで。このシーンの演技がとにかくすごいので、この後の白い悪魔がイッキに「目を覚めせ!」と叱責するシーンがすごく映えるんですよね……アドリブの楽しい演技はもちろんたくさんありました!放浪の海賊とのおしゃべりがほのぼのしていてかわいい。コイントスでコインを落としてしまって、慌てて手をかぶせてしゃがむのが本当にかわいかった。マルローとのやりとりも、親しい信頼する仲間に話しかけている感じがよかったです。マルローがイッキに近づいていってしまう気持ち、わかる。心理的にもそうだけど、物理的に距離が近づいていくの……イッキの陽だまりみたいな雰囲気、わかる。
マルロー
溢れ出る頼れるお兄ちゃん感。小波津亜廉さん、見た目が良すぎる。レビューコーナーで目の前を通過していく姿が2019年に生きる同じ人類とはとても思えなくて……。マルローの要素てんこもり衣装が似合う人、超しびれる。アクションすごかったです。走る姿がもうマルロー。1人だけ短剣でのアクションなので他の人と全然リーチが違って大変そうだなあと漠然と思った観劇前の自分、海に落としたい。拳とキックにすべてをのせる感じ、超しびれる。カッコいいどころの話ではない。演技はいわずもがなでした。マルローは過去に仲間に嵌められたことがあるので、やっとみつけた陽だまりのような居場所が大事で大事で仕方ないのに、その居場所がなくなりそうになった時に自分では動き出せない、みたいな葛藤をするシーンがあって。階段でうずくまってる姿すら……様になるじゃん……。白い悪魔が抱えているものを知ったり、放浪の海賊に背中を押されてイッキを取り戻しに行こうと決めた時は激アツでした。君はもうひとりじゃないね。マルローは信頼や友情について一番語っていてクサいセリフが多かったのですが、あの、はまってました。亜廉さん何者なんだ。俳優さんだ。かっこよかった。初代マルローからのまっすぐさはそのままに、過去回想や葛藤を丁寧に描いてくださっていて、マルローという人物を掘り下げてくださったのが嬉しすぎて筆者は泣いてしまいそうでした。ところで島に置き去りってえぐくないか。海賊怖い。お料理してました。フライパン叩きながらイッキと放浪の海賊を呼びに来るマルロー、ほぼお母さん。長い料理名を噛まずに言える。イッキと放浪の海賊は噛んでた。マルローはドヤ顔だった。かわいい。
魔法使えそう(すっとぼけ)。菊池修司さんの立ち振る舞いがこれ以上ないほど優雅で、彼のいる場所だけ気温が低そうでした。床に這いつくばる姿すら美しいなんてことが実際にあるんですね。と思ったら2回目観に行ったときにはさらに動きが美しくなっていた。マジか。初代白い悪魔役のカミュ様が白い悪魔の衣装は重くて大変だった、みたいなことをおっしゃっていましたが、今回も見た感じ負けず劣らず豪華な衣装で、動くと、翻る……。衝撃波で観客は死ぬ。客席後方でのアクションシーンが好きでした。大きく動いているのに、洗練されていて美しい。もう一つ、彼の挙動で好きだったのが船室の大きなイスから下りる動作です。普通、大きいイスなので手をついてしまったりして、よっこいしょってなるじゃないですか。でも悪魔は格が違った。全くいい表現が思いつかなくてお詫びのしようもないのですが、少し上半身を前に倒して重心を前にずらしつつ組んでいた長い脚を軽々ほどいて地につけ、一気に立ち上がる、みたいな。擬態語にすると、スッ、フワッ。うーん。映像を確認してください。つって公式youtube と貼ろうと思っていたのですが、公式のダイジェスト動画にはどうやらこの場面はない。現場か円盤でご確認ください。白い悪魔は魔法が使えることで周囲から疎まれ、悪質な興味の対象にもなり、そもそも魔法が自分の体を蝕むので、とにかく強く在らなければならない状況で生きてきたし、強くあることを自分に課してきたのではと思っています。マルローに浴びせた「今のお前は自分の居場所すら自分で守れない。黙って従っていろ。」だとか、「失う前から失ったことを嘆くような奴と一緒にするな。」という言葉には、逆境に対して諦めていて、取り戻したいものがまだ手の届くところにあるのに手を伸ばそうとしないマルローへの怒りやいらだち、「まだ手が届く」ことへの一種の羨望みたいなものが込められている気がしていて。マルローもカミュもそれぞれ抱えているものはあるのにタイプが違いすぎて、認め合えても分かり合えないんですよね。そこがいいんですけど。厳しく生きてきた未熟なカミュに手を差し伸べてくれた赤い天使は彼にとってきっと神様みたいな人なんだろうな。キャプテンレッドを赤い天使だと信じ込もうとしているイッキを力強く諭す白い悪魔、語彙が凍るほど最高でした。悪魔は赤い天使と面識があるのに、「顔が違うから違う」って言ってもイッキは聞かないのを分かっていて、かける言葉が「お前の心に聞いてみろ」なの、大人。赤い天使ルーツの気高さを感じる。
オリジナルキャラクターの面々
ストーリーの核心から遠い順
スミス
こんなにいい執事を持ててカミュは幸せ者だと思いませんか。有事の際の作戦参謀を兼ねているので、戦闘シーンでそれっぽいセリフが出てきて楽しかったです。船員の教育係も兼ねていたり。船員の尻を叩いて姿勢を正す執事、いい。おそらく満場一致で最高なのはご主人様とのシーンです。日替わりパートでは、大きなウェディングケーキ型の箱からお菓子が出てきます。ご主人様の受け答えがあまりにもかわいいので現場か円盤でご確認を。だって毎回変わるから書ききれない。「カミュ様、サトウキビジュースのお時間です。」「存分に糖分をお取り下さい。」で笑いの起こる会場。個人的に爆推ししたい注目ポイントとしては、カミュが魔法を使ったダメージで苦しんでいる時で、観ている客の胸が締め付けられるような苦しい顔をするのです……。マルローに接近して遊ぶスミスさん愉快でした。
ミートマーケット・ジョー
名前直球すぎません?本人がこの名前で呼ばれることをめちゃくちゃ嫌がっててちょっと笑っちゃいました。まあそうだよね。名前も直球ですが、役もド直球の悪役で、それを全うしきっているところが推せたと観劇直後の自分が申して居る。ファーがたくさんついてて暑い衣装なのにアクションが激しいから臭くなっているかも、と心配する河原田さん。かわいい。キャプテンレッドいわくオッケー。二刀流のトップレベルに激しいアクションで、登場、ほぼイコールアクションシーン。キャプテンレッドが手の内を明かさないことにいらだつシーンの演技が16日と21日ではかなり変わっていました。16日は、冷淡な話し方で、21日はやるきのな~い話し方に変わっていました。どっちにしても、信頼なんてクソくらえだ!という彼自身のポリシーにそっていないセリフなので面白かったです。そのあとの「大事なところは一人で全部抱え込むってか……むかつくぜ!」と怒鳴るテンションとのジェットコースターが楽しい。要するにいい悪役。結末まで推せる。
キャプテンレッド
明らかに胡散臭い。何か他に書こうと思っていたのですが、申し訳ない、胡散臭い以外に浮かばない。影が薄いのでもストーリー上での役割が少ないとかでも全然ない。ただただひたすらに胡散臭い。銃を隠し持ったり、戦い方がセコイ。赤い天使のフリをやめた瞬間の豹変ぶりがすごかったです。ジョーとはまた違ったタイプで、ただひたすらに悪役でした。短くてごめんなさい。
放浪の海賊
普通の人なら公式サイトの時点で怪しいな、と思うのかもしれませんが、筆者はコミックレリーフだと信じて疑っていませんでした。勘が鈍すぎる。分かったうえで見ると、赤い天使に繋がる歌を歌えていたり、過去に捨てて後悔したものがあるといっていたり、イッキの母親が亡くなったことに食いついていたり、頑なに白い悪魔と会おうとしなかったり、怪しいでは済まない、ほぼ確定ですね。コイントスに決定を任せていたイッキに「余計なものぜーーーーんぶとっぱらって、自分の心に聞いてみな。」(曖昧)刺さる。背中を見せてくれてありがとう。16日公演ではそんなに感じなかったのですが、21日公演ではイッキと話していると親子にしか見えなくて困りました。顔が似ているわけではないし、ちゃらちゃら喋っている空気感は別に似てないんですけど、ふっと真剣に話すモードに変わった時や本当にちょっとしたたたずまいや纏っている雰囲気が同じな瞬間がありました。最期の船から飛び降りる時に3人にかける言葉が「マルロー、息子支えてくれてありがとな。」「カミュ、お前はもう赤い天使から解放されるべきだ。」「イッキ、……愛してるぜ。」最低限の言葉で3人に必要なものをポン、とおいていってくれたような、かっこいいおじさんでした。船からの落ち方が美しかったです。
レビュー
歌もダンスもファンサもすっごく上手なので、あまり期待していないとほざいた観劇前の自分を海に突き落とします。ソロもユニットも全部良かったです。キレッキレでした。パイフロのサビの空中をキックする振り付けが好きです。イッキの曲がコール多めなのが良かった。
BGMも含めて曲がとにかくいい。さすがエレガ。歌詞もいい。シャイニング事務所すごい。劇団シャイニングすごい。
インタビューでもありましたが、自分の人生にも当てはまるようなセリフが随所にあって、それでも重くなく、エネルギッシュで疾走感ある舞台でした。映画の段階から、一人の少年の成長物語としても、人の弱さに向き合う物語としても、諦めを知ってしまった大人が自分を重ねつつ純粋な心に戻れる物語としても素地がしっかりしているので2時間15分の舞台作品として十分成立し得るんですよね。それを脚本の伊勢さんが汲み取って膨らませ、キャストさんスタッフさんの力で昇華させていいものを作った!という気概が伝わってきます。娯楽作品の側面とメッセージ性が強い面のバランスがちょうどいいので、普段舞台を観ない層も、舞台オタクやってる層も満足できる大衆向け作品かと。あと、初代のキャストさんのツイッターと2代目のキャストさんのツイッターやインタビューの両方を一通り追いかけてみて思ったのが、どちらもキャストやスタッフの皆様が作品を愛してくださっていて(リップサービスかもしれないけど)作品を通して出来た成長や気づきを発信してくださるのが良いところですね。やっぱうたプリ楽しいな舞台っていいな。またイッキ達に会える日まで、ヨーホー!